札所二番の納経所である光明寺の前の参道からスタートです。
参道前の坂を下ります。
坂を下っていくと、クランク状になった十字路に突き当ります。その手前に新しめの道しるべ石がありました。「みぎ 三番 正面 納経所 ひだり 二番」となっています。
その斜め前には、ほとんど読めない古い道しるべ石があります。
心求・はまの道しるべ石です。ほとんど読めませんが、「右 三番道 左 四番道」となっているとのこと。説明がないと、わからないくらいでした。
別の面には、「右 二番道」となっているそうです。
こちらの石をみると、第一回に書いた弁財天の碑から二又に分かれた道がここに着くのだとわかります。光明寺が納経所ではなく、札所二番に納経所があった時代なら直接二番から三番に行くわけですから。
ここからクランク状の十字路を光明寺からの坂道から直進すると、たしかに札所四番へ続く道になっているそうです。
とはいえ、札所四番ではなく札所三番へ向かっているので、この道しるべ石を左手に見ながらまっすぐ歩きます。
公園のような場所に、「庚待塔」と「接取不捨」と書かれた石碑がありました。
裏にあるのは、薬師堂の建物とのことです。
ここからバス通りの県道を渡ります。ですが、その前に山田の春祭りで知られる恒持神社を紹介します。バス通りから少し四番の方面に行きます。
4番の金昌寺方面に少し歩くと、恒持神社があります。3月の春まつりでは音楽花火で有名だそうです。
恒持神社近くには如意輪観音の小さな祠がありました。
さて、県道を渡ったところからの続きです。
バス通りの県道を渡った先には「天下泰平」の道しるべ石があります。「右 二ばん 左 三ばん」となっています。
もう少し歩くと二又になったところに、新しい道しるべ石です。
「正面三番みち」の石です。矢印付きで二番へと四番への方向もわかるようになっています。ここを背にして、山田橋のほうへと歩いて行きます。
横瀬川にかかる山田橋です。江戸時代の案内記にも三番へ行くには小川があると書かれていました。
以前は、山田橋の左側のほうから川に下る小さな道があったようです。山田橋の下を通り対岸に渡ります。渡った先には階段のようなところがあり、ホテル美やまの脇に出たそうです。
橋から下のほうに向けて写真を撮ったのですが、道はよくわからず。他の人のサイトをみると、ここから下に行った人もいるようですが、私はまったくわからなかったので、上の舗装道路からしか見ていません。
江戸時代は橋の左から川の近くまで下りて、もう少し「ホテル美やま」のほうに歩いてから、対岸に行ったようです。
ということで、私は「ホテル美やま」の方面に舗装道路を歩いて行ってみました。
おそらく川を渡り、対岸に行き、ここの入口あたりからこの道に出たと思われます。
この道を通って、横瀬川に沿って歩いて三番に向かっていったと思います。脇には石が積まれている道です。
別の時期に山田橋のまわりをもう一度調べてみました。
やはり小道はあると思うのですが、はっきりとは道はわかりませんでした。現在は、素直に山田橋を渡るのがいいようです。山田橋を渡って左に曲がります。
山田橋を左に曲がって(先程のホテル美やまの前の道)を先に進むと、「宇賀神の石碑」と「三番道の道しるべ石」が向き合うようにしてありました。
道しるべ石は、心求・はまの石です。これまた読みにくい状態でしたが「三番道」となっているとのこと。
さらに進むと、三番常泉寺の参道入口です。「札所三番入り口」と書かれた石です。
この台座には「ひだり十番みち みぎ四番みち」と書かれています。
この入口の道しるべ石の後ろをみると「昭和五十年秋 秩父市」となっていました。そばには、お地蔵様が置いてあります。
ここを右に曲がって住宅地を抜けると、札所三番の駐車場があり、その先の畑道を歩きます。
江戸時代の『秩父順礼独案内記』には、常泉寺は「岩本」と書かれていました。
山の手にあって、「長命水」は庭前の井戸にあるということや「子産石」は御堂の傍らにあると書かれていました。不睡石は山の上にあって、ここから八町離れたところに岩本の瀧という場所もあると書かれていました。「子産石」は今は「子持石」と呼ばれているようです。
江戸時代から「長命水」や「子産石(子持石)」が知られていたのです。
ここは明治3年に秩父神社にあった蔵福寺の薬師堂を移築したものだそうですので、私たちは江戸時代の頃とは違った観音堂を見ているのでしょうね。
ということで、札所三番まで来たので次は札所四番を目指します。