札所二十二番へは現在は江戸巡礼古道ではなく明治巡礼古道を使います。
札所二十二番の童子堂は古くは奈良時代に作られた寺が童子堂観音として信仰を集めていたそうです。延喜年間に府坂峠に移され、さらに移動し、現在の場所に移ったのは明治43年とのこと。
なので、江戸時代には現在の「札所二十二番跡地」となる場所のほうに歩いて巡礼していたのです。
今の場所に移ったのは明治43年以降なのですが、巡礼古道に関しては、跡地へ通じる長尾根みちを「江戸巡礼古道」と呼び、現在の場所への古道は「明治巡礼古道」と呼び分けられているようです。
「明治巡礼古道」と「江戸巡礼古道」と別の道であることがよくわかるのは、上の写真にあるように、2つの分かれ道のところです。
札所二十一番を出て県道を歩いていくと、薬師堂の手前で道が分かれるようになっていて、その場所に「明治巡礼古道」と「江戸巡礼古道」への行き方が案内板に両方書かれているのです。
江戸巡礼古道については、札所二十二番から二十三番までを「長尾根みち」と呼び、札所二十四番から二十五番までを「久那みち」と呼んでいるようです。
まずは現在の札所二十二番への道となる、明治巡礼古道についてです。
札所二十一番を出てからは県道72号を右方向に出て真っ直ぐ歩いていきます。札所二十一番のバス停を過ぎて、300メートルほど歩くと、県道の左側は林のようになっていて、右側に入っていく道が見えてきます。
その曲がり角にはお店風に見えるのですが、薬師堂公会堂です。道の手前には「馬頭尊」の石碑です。
薬師堂があることは、薬師堂公会堂の先まで歩くとわかります。公会堂の隣にお堂が見えます。いま来た県道からは公会堂の先まで行かないと、お堂のほうが見えにくいです。
お堂の手前には、お地蔵様も立っています。県道をさらに直進していきます。
歩いて行くと、県道から左に細い道があるのが見えてきます。その二又になっているところに、「右 二十二番」の石とともに、「明治巡礼古道」の案内板があります。ここを左の道に入っていくのだなとわかります。
その道しるべ石のとなりに、石柱が立っていて、「武ノ鼻渡舩場ヲ経テ秩父町通」と書いてありました。「武鼻橋」については、江戸時代の書籍、『秩父順礼独案内記』にも書いてありました。江戸時代には、この明治巡礼古道を使っていなかったのに、です。
左に入ってから少し歩いたところの左手奥に、寺尾城跡があるとのことでしたが、よくわかりませんでした。城跡を探すよりも巡礼古道が目的だったので、探すことなく、そのまま道なりに歩いていきました。
途中くねくねとしていますが、道なりに進んでいきます。
途中、大きな木があって三叉道のようになっていました。以前は目印になっていた木なのでしょうか。ここも道なりに沿って歩いていきました。
道はゆるく右にカーブしていきますが、それでも道に沿って歩いていきます。 左側が竹やぶや木立になり、瓦店の工場の先の三叉のところに当たります。
そこを左に曲がります。このまま道なりに歩いていていいものかと心配しましたが、それでも歩いていくと一瞬、行き止まりかと思う場所で左に曲がると、南無観世音菩薩の赤い旗と、明治巡礼古道の案内板が見えてきました。
左に曲がってからは、この赤い旗が立っているところを右に入っていきます。「南無観世音菩薩」の旗は、これからも目印として、しばしば見ることになります。この旗が見えたら一安心です。
石垣がある古道らしさが残る道ですが、これまでの舗装された道ではなく土の道になります。
ここから先は、畑の中の農道を歩く感じになります。 地図で上から見てみると、ここからほぼ真っ直ぐ先が札所二十二番の童子堂にあたります。今は畑道の中でまっすぐには行きません。
畑の道の中を直進し、曲がり角には「南無観世音菩薩」の旗があるので、それを目印にします。
旗のそばまで行けば矢印も書かれた明治巡礼古道の案内板もあります。旗のところで、右に曲がって畑道を歩きます。
明治巡礼古道は童子堂へは くねくねした道ながらも、比較的真っ直ぐの道だったようなので、ここで曲がるのは、おそらくこの先の道が消滅したからでしょう。この畑の奥は森のようになっていました。
便宜上、畑の中にできた道、迂回路になるのでしょう。この畑道を出て県道の方へと戻ります。
舗装されてはいませんが、軽自動車くらいなら車も通れそうな道になってきました。
別の時期に撮ったのですが、県道からみた細道です。このように県道近くまで行くと畑の中の道は舗装されている(途中まで舗装道路となっているのがわかりますか)のですが、それでも車が通るとしたら、ぎりぎりではないかと思うくらい細い道です。
県道72号に戻ります。明治巡礼古道の案内板のとおり、県道に出たら左に曲がります。
県道に出て左に曲がり、ゆるく左にカーブした道を20メートルほど歩くと、右に大日堂が見えてきます。その前には「大日如来」と書かれた石碑もあります。
県道を歩いて右側が大日堂なのですが、左側をみると、深い堀が見えました。童子堂の周りは室町時代の城跡(永田城跡、鉢形城の砦の一つ)が残っているそうです。そのため堀跡や堤がここの他にも見ることができます。
ここまで来る途中にも寺尾城跡があるとのことでしたし、このあたりは、鎌倉時代、室町時代にはお城の多い場所だったのでしょうか。
この写真に写っているのは卯の花だと思うのですが、 そこからゆるく右へのカーブになっています。
その先に札所二十ニ番の参道入口となる場所が見えました。入口のところにも南無観世音菩薩の旗が立っていました。札所二十二番のバス停を過ぎ、上寺尾公会堂のところで左に曲がります。
入口の右側には「札所二十二番入口」と書いてある台座に乗ったお地蔵様もあります。年代のところが崩れてしまっていますが、安政四年なのだそうです。十一月吉日は読めました。
入口のお地蔵様と武甲山のツーショットです。このお地蔵様の前は駐車場になっています。5台くらいは止めることができそうな駐車場でした。
お地蔵様のところを左に曲がって道なりに進んでいきます。途中、坂道を下る感じになります。そこは城跡なのか、堀のようになっていました。こちらは道の右側の様子です。
道の右側に太陽光発電のパネルとその向かい側に墓所がある場所が見えてきます。そこにも「巡礼道」と書かれた道しるべ石がありました。「右 二十三番 左 二十二番入口」と書かれていました。
今来た道を振り返ったところです。写真で見れば、下り坂になっていることがわかるかと思います。
道しるべ石の向かいには「巡礼みち 二十三番」の案内板もありました。札所二十二番の参拝が済んだら、ここまで戻って二十三番へと向かうことになります。
道しるべ石のところからは、10メートル程度で札所二十ニ番、童子堂の入口に到着します。
入口には石仏とお地蔵様が置かれていました。お地蔵様の下はその時咲いていた八重桜の花びらです。石仏とお地蔵様の後ろ側も広いスペースがあって駐車場になっているようでした。
茅葺きの山門前に八重桜が咲いていました。山門には童子の顔の仁王様がいます。童子堂は、境内に道しるべ石が2基あるとのことなので、中を見てみましょう。
山門を入ると奥に観音堂が見えます。
観音堂の入口は、山門から入って左側に回ると見えます。観音堂の扉には風神雷神の浮き彫りがあります。
観音堂の前に、藤の木があってその根元に道しるべ石がありました。「向左 廿一番道 右 廿二番」となっています。
童子堂は江戸時代元禄14年に「栄福寺」の住職の弟が再建したということで、江戸時代は「栄福寺」が童子堂の別当となって管理していたと言われています。
童子堂に行くと、説明書きのところには「秩父札所二十二番」「西陽山 永福寺」となっていて、お堂が「童子堂」となっていました。
童子堂の隣が永福寺となっているようです。永福寺(昔は、栄福寺と書いた)の以前の場所は県道の向こうの山側にあったようです。
なお、昭和四十年のこの説明書きには山号が、「西陽山」となっていますが、別の新しい説明書きには「華台山」となっていました。最近のガイドブックをみると、いずれも「華台山」となっていました。
境内にあるといわれる道しるべ石ですが、もう一基の道しるべ石がわからなかったのですが、今思うと、この説明書きの前にある石が道しるべ石だったのかもしれません。
もしそうなら、「みぎ 二十三番道 ひだり 大ミや道」と書かれているはずです。写真では日陰になってしまって文字が確認できませんでした。
そのほか、境内には地蔵塚があって、中にお地蔵様が収められていました。
以上が現在の地にある札所二十二番の童子堂です。
次に江戸巡礼古道の途中にある「以前の札所二十二番」への道を紹介します。江戸時代の道のほうです。
以前の札所二十二番ですから、現在は「跡地」となっています。まずは薬師堂のところの分かれ道のところまで戻ります。
先程の薬師堂手前の江戸巡礼古道と明治巡礼古道との分かれ道の付近です。
薬師堂手前となる分岐地点です。先程も写真に乗せた「馬頭尊」と書いてある石碑がある場所です。
ここを先程は直進しましたが、今度はここを右に曲がっていきます。
左にカーブする道ですが、道なりに歩いていきます。
途中、曲がり角が見えますが、道なりに真っ直ぐ歩いて行きます。住宅地を抜けると木々が多くなってきます。長尾根のほうへ向かうので、森のように見える木々の方へと歩いてきます。
だんだん上り坂になってきます。ヘアピンカーブのように曲がっていくと、前に二又道、そのまた横に道がある何本も道が交差する峠のような平場の場所に出ます。
今やってきた道に続く道は舗装されて車も通れるような道ですが、二又になっている右側は細い道となっています。
そちらの右の細道を少し上ると、札所二十二番の跡地に到着です。
説明書きの看板にあるように「ここより北へ百メートルほどの府坂地内に童子堂が建立されていたが、江戸元禄十五年に現在の童子堂がここに建立された。以来二百年もの長い間、この地に建っていた童子堂は明治末期になると巡礼に便の良い現在の二十二番の地に移された」となっていますが、ここよりさらに前の北へ百メートルほどの「府坂地」までの道は現在は確認されていないそうです。
説明書きの下に簡単な地図があって、点線となっているのが、江戸巡礼古道です。「この跡地には奥の院の跡や礎石が残り」と説明書きに書かれているように以前は供養塔などがあったそうなのですが、私が行った時は確認できず、見えるのは下草のようなものばかりで、草木で荒れた場所になっていました。
江戸時代の巡礼では、この「跡地」がある場所で参拝してから次の二十三番へと行ったわけです。ここからの道が江戸巡礼古道の中でも「長尾根みち」と呼ばれています。
次回は、二十三番へと続く道ですが、二十二番の場所となるスタート地点(新旧)が異なるので、江戸巡礼古道と明治巡礼古道では別の道を通ることになります。