秩父札所の巡礼道を徒歩で道しるべ石や石仏とともに江戸巡礼古道

秩父三十四観音霊場を江戸時代に流行した時のように歩きで周り道の巡礼石を紹介

このサイトは秩父札所と札所の間にある巡礼道に関することを書いています。

巡礼道の石碑などについてだけですので、札所、すなわち寺院については別サイトを参照ください。

札所についてはこちら>>秩父三十四観音霊場、秩父札所の記事一覧

札所二十八番から二十九番へ

テレビでもよく特集番組に取り上げられているので、見たことがあるかもしれませんが、札所二十八番の橋立堂は 武甲山の麓にあります。

 

岩盤が背後に立っているという特殊な地形の場所にあります。さらには、納経所の隣には橋立鍾乳洞への入口があります。この鍾乳洞は12万年前にできたものと言われています。

 

珍しい地形にあることや鍾乳洞があるために、巡礼の人以外にも参拝に訪れる人が絶えない橋立堂です。

 

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札所二十八番の橋立堂で参拝したら札所二十九番に行きます。なお、橋立堂は冬の間(だいたい12月中旬頃から3月くらいまで)は、納経は札所二十七番の大渕寺で行っています。

 

山門から出て、来た時と同じ道を歩きます。先程、浦山口駅へ降りる分かれ道に、道しるべ石があることを書きましたが、札所二十九番へはその分かれ道まで行きます。

 

今度は浦山口駅のほうに行きます。向かって左の道を降りていきます。

 

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山の中の道を進んでいくと、途中で道が開け、西光寺が見えてきます。

 

ハイキングコースの人たちは、そのまま道を降りていきますが、巡礼道は西光寺の駐車場で右側に入ります。上の写真でもわかるように、左側は降りてきた道です。右側の駐車場の先の草むらに入っていきます。

 

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一見すると道がないように見えますが、先に進むことができます。知る人ぞ知るの道なのかもしれません。

  

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草むらを抜けると、稲荷神社の参道があります。平沢稲荷神社というのだそうです。

 

ここは稲荷神社の参道を歩きますが、稲荷神社のほうに行かないでそのまま浦山口駅の方へと降りていきます。

 

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 私は稲荷神社には行かなかったのですが、稲荷神社への道は階段状になっていました。

 

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この参道を下って行きます。

 

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稲荷神社へは、石段からも行けるようになっていました。木々の間を抜け、巡礼道は山のほうから下ってきている道です。

 

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下まで行くと先程の西光寺の駐車場で分かれた舗装道路に合流します。その合流するところの道端に、草の中に隠れるようにして、道しるべ石がありました。

 

見過ごしてしまいやすいのですが、心求・はまの道しるべ石と書いたいつもの説明書きがそばにあります。ここに道しるべ石があることからもわかるように今下りて来た道が古道なのですね。

 

この道しるべ石には「ひだり 二十九番」、右面に「ひだり大宮」、石の裏面左に 「みぎ 二十八番」と書かれているとのこと。説明書きにも書いてありますが、大宮は秩父市内のことです。とはいえ、刻字はかなり薄くなっていてほどんどわからない状態でした。説明書きが、そばにあるからわかったようなものです。

 

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その道しるべ石からそのまま直進して広くなっている平場のような場所から下の道へ降りていきます。

 

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 広場のような場所から、広めの道へ降りる道があります。 この道を通って秩父甲州往還と言われる少し広めの道に出ました。

 

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その道を道なりに歩いていると、諸下橋に着きます。ここを流れるのが橋立堂へ行く途中では見ることができなかった橋立川です。橋の先には、キャンプ場入口と書いてある看板がありました。本来の旧道は北側下だったそうです。

 

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歴史の道報告書によると、橋立川の左岸には旧の橋の橋脚を建てた跡が残っているそうなのですが、それっぽいものはありましたが確信は持てませんでした。

 

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橋を渡り、さらに歩くと、道が二手に分かれます。

 

左の道は上り坂になっています。左側の道を上っていきます。最初はゆるやかに左にカーブして、高いヒバの木が見えて、旧家のような民家の先で右に折れていきます。道なりなのでわかりやすいです。

 

諸の高札場

 

直進すると道の右側、民家の庭先に秩父市の史跡である「諸の高札場」跡がありました。

 

江戸時代、重要事項は村の高札場に掲げて周知させていたということなので、村には高札場があったわけです。

 

秩父市の説明によると、「久那村(諸)の高札場の遺構はただ礎石の一部のみであるが、隣家の諸家には当時の高札が残されている」とのこと。ここは石詰みされているものがあるのみでした。

 

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高札場跡のお向かい、道の左側にはお地蔵様です。 

 

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さらに直進すると、T字路のような二又の分かれ道になります。直進する道の右側には道しるべ石がありました。

 

「みぎ 二十九番 ひだり 日原」となっている心求・はまの道しるべ石です。

 

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 道しるべ石のある分かれ道を右に曲がって下へ降りていきます。また、先程まで歩いていた広めの道に戻ります。

 

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少し道を戻るようにして歩くと、秩父市の注意書きの看板「サイレンが鳴ったら川から離れて」のそばに下へ降りる道がありました。

 

古いガイドブックには、浦山渓谷キャンプ場と書かれていました。

 

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キャンプ場は現在営業していないようでした。

 

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降りていくと、遠くのほうにポツンと石が立っているのが見えました。浦山川のすぐそばです。 

 

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永代橋を供養するために建てた石碑です。川に向かって建てられていました。

 

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下のほうに「永代橋供養」と書かれていました。安永三年の永代橋供養塔でした。

 

このことから、ここに橋があったことがわかります。江戸時代はここで川を渡って対岸に着いたようです。

 

とはいえ、今は川を越えることができませんので、少し遠回りになりますが、別の道を通ることにしました。

 

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先程の心求・はまの道しるべ石、「みぎ 二十九番 ひだり 日原」と書いてある石のところまで戻りました。

 

今度は、右に曲がらずに直進しました。高台の道を歩いていると途中で二又道になり、右側の道を進みます。

 

すると、すぐに芭蕉の句碑が見えてきます。秩父市指定史跡の「諸の翁塚 芭蕉句碑」です。

 

この句碑は、かつては浦山川と橋立川の合流地点近くの諸下橋脇に建てられていたそうです。ここまで来る時に通ってきた橋です。

 

それが移転し、現在は、札所二十九番への巡礼道につながるこの地に移されてきたそうです。

 

この句碑には、「草臥(くたびれ)て宿か留比(るころ)や藤の花」と刻まれているとのこと。かなり薄くて読みづらい印象です。芭蕉の句碑に関しては札所二十九番から三十番への途中にもありますので、そちらでもご紹介します。

 

 

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先程は、諸下橋を渡りましたが、今度は諸上橋へ向かいます。

 

諸の地域の「上」という橋なのでしょう。まるで鉄橋のように見える橋が見えてきました。

 

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本来なら江戸巡礼古道は浦山川を渡って対岸に着くはずなので、たどり着いた対岸はどこかと見晴らしのいい場所から見て、当たりをつけてみました。

 

おそらく対岸は森のように見えるところではないかと思いました。

 

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諸上橋を通ると、左手には遠くにダムが見えます。浦山ダムです。

 

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諸上橋からの眺めはおすすめです。特に桜の時期は。

 

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諸上橋から右側を見たら、ちょうど桜の時期だったので、札所二十九番の門前にある大きな「枝垂れ桜」が遠くからでも見えました。

 

上の写真では左端に小さく写っています。橋を渡ってからは右に進むと、途中二又になっている場所が見えますが、ひとつは一般の道ではなく、河川管理用通路となっていて通行はできません。

 

そのまま道なりに歩きます。坂を上っていくと、大きな枝垂れ桜が見えてきて札所二十九番、長泉院に到着します。

 

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しかし、その前に江戸時代、浦山川を渡った後の対岸はどこだったのか、探してみることにしました。

  

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以前、札所二十九番に訪れた時、門前の斜め前に札所につながる道があり、その道は国道140号、秩父往還につながっていました。

 

そちらに行ってみました。 前に来た時は、林に囲まれて薄暗い場所がきれいに舗装されて新道になっていました。

 

その途中に地蔵塔と観音塔がありました。観音塔の台座には「右 廿八番」と書かれています。

 

これを見て浦山川を渡った対岸からこの地蔵塔と観音塔に来るはずと思い至り、その手前の道を右に入ってみました。 

 

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杉木立の先に広い原っぱのような場所があり、その先に大きな岩がありました。

 

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大きな岩の先は林のようになっていて、これが諸上橋から見た時、森のように見えた場所だと思いました。

 

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林の方へまっすぐ歩いていくと、やはり思ったとおり、心求・はまの道しるべ石がありました。これが江戸巡礼古道だったのでしょう。今は、川を越えて行かないので、この道は使っていないようです。古道として残しておいてあるだけのようです。

 

この石はけっこう刻字が読みやすくなっていました。心求・はまの道しるべ石の説明書きに向かって、左側の面には「ひだり 廿九番」と書かれていて、正面には「みぎ 廿五番」と書かれていました。

 

江戸時代のガイドブックである『秩父順礼独案内記』にも、二十五番から二十九番へ行くことも書かれていたので、道しるべ石にも二十五番のことが書かれているのだと思いました。

 

心求・はまの道しるべ石を後にしてさらに先に進みました。 

 

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森のような場所から下へ降りる坂道があり、ダム工事用の河川管理通路が見えました。河川管理通路まで降りていいのかわからなかったので、下までは降りませんでした。

 

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 河川管理通路の道を上から眺めると、船着き場のようにも見える場所もありました。しかし、巡礼道はどこだったのかはわかりません。下まで下りていないので。写真も遠くから撮ったものを引き伸ばしているだけです。

 

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元来た道を戻りました。おそらく江戸時代は川を渡って、対岸にたどり着いたらこのように杉木立を抜け、先程、行きに見た心求・はまの道しるべ石のそばを通り、観音塔と地蔵塔の前を通ってから札所二十九番に行ったのだろうと思います。

 

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地蔵塔と観音塔に向かって右手奥が浦山川を越えてきた巡礼の人たちが通ってきたと思われる道です。

 

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この地蔵塔も観音塔も同じ行者が奉納したようです。施主のところに「行者善心」と見えます。

 

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地蔵塔と観音塔から札所二十九番方面を見たところです。この光景が江戸時代通った道からみた光景でしょう。地蔵塔と観音塔の脇の道を札所二十九番の方向に進みます。

 

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先に進むと二又の道になり、その分かれ道のところに鉄塔が見えます。

 

その前には道しるべ石がありました。正面に「ひだり 二十九番」の心求・はまの道しるべ石です。「為 一切流生」と書いているようです。

 

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その石の右側面の「願主」の隣に書かれている文字は、「みぎ 二十九番」です。

 

同じ二十九番の道しるべでも、心求・はまの説明が書かれた案内板に向かって正面は左の道、右面は右の道を示しているのです。

 

二又の道のどちらの道を通っても二十九番に着くということの意味のようです。右も左も二十九番ですから。

 

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こちらの左側面には、「ひだり三十番」です。

 

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鉄塔のそばの分岐地点の付近には庚申塔がありました。後ろには記念碑のようなものもありました。

 

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鉄塔の付近には、他にも地蔵菩薩の石碑などもありました。

 

この二又の道はどちら側を通っても札所二十九番には到着しますが、右側を通ると山門から離れるので、少し遠回りになります。左側の道を通ると、ほぼ正面に札所二十九番の門前に着きます。

 

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札所二十九番の長泉院は門前の枝垂れ桜が有名です。

 

札所二十九番の近隣には、桜で有名なお寺がいくつかあり、桜の見頃の時期には清雲寺、昌福寺、千手観音堂などと一緒に参拝する人もいます。

 

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門前のお地蔵様の台座に「廿九番」と書かれていました。

 

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枝垂れ桜のそばには、明治四十三年三月廿八日の銘が入った「卒業記念植樹枝だれ桜」の碑もありました。

 

この桜の木は、明治時代に植えられたものなのでしょうか。明治四十三年は、西暦だと1910年ですから、2022年から見れば、約110年経つ木ということなのかなと思いました。

 

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 本堂に通じる参道には、神社でよくみるような石柱もありました。

 

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長泉院は石の納め札があって、別名を「石札堂」とも呼ばれています。「笹戸山石札道場」と書かれた石碑もありました。その隣は、「篠戸山長泉禅寺」と書かれた石碑です。

 

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その奥にも石柱がありました。文字が書かれているのですが、達筆すぎて読めません。

 

そのそばの木札には、その時期に咲いている花の名前が書かれています。開花情報のお知らせのようでした。

 

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その季節ごとに異なる花もきれいなのですが、美しい枯山水庭園も見事です。 

 

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笹戸観音の故地と呼ばれる場所が今の長泉院の裏手にあるとのことなので、裏手に見える広い原っぱのような場所がその跡地の場所かなぁと思いました。

 

そもそもはこの近くの山の岩壁の下に懸崖造りの観音堂があったそうなのですが、火災にあって今の長泉院の裏手の寺域に移り、さらにそこから今の本堂の場所に移ったそうです。