秩父札所の巡礼道を徒歩で道しるべ石や石仏とともに江戸巡礼古道

秩父三十四観音霊場を江戸時代に流行した時のように歩きで周り道の巡礼石を紹介

このサイトは秩父札所と札所の間にある巡礼道に関することを書いています。

巡礼道の石碑などについてだけですので、札所、すなわち寺院については別サイトを参照ください。

札所についてはこちら>>秩父三十四観音霊場、秩父札所の記事一覧

札所三十番から三十一番へ

札所三十番までの道のりも長かったですが、札所三十番から三十一番までの距離は、さらに長くて、その倍はあろうかと思うくらいです。

 

事実、三十番から三十一番の間が札所間の最長距離となります。

 

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札所三十番の法雲寺では、観音様のお参りを済ませたら、観音堂に向かって左側にある寺宝のコーナーを見ておくことをおすすめします。

 

中でもおすすめなのが、古い納め札です。

 

「西国、坂東、秩父百ヶ所札所」の文字が入っていることで、三十三の三倍の九九ヶ所の札所ではないこと、ぴったり百にしていたことがわかります。

 

室町時代には、秩父札所は三十三観音ではなく、三十四観音霊場になっていたことがわかる、という納め札なのです。西国、坂東ではなく、秩父の札所を三十四にしたわけです。

 

その頃までは秩父も札所は三十三ヶ所だったのでしょう。

 

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札所三十一番へは、もと来た道を途中まで戻ります。白久駅まで行かずに、途中で道を左に曲がります。

 

行きに双体道祖神の祠の先の広場のような場所から道路へ出ましたが、道を隔てた反対側の近くに山沿いに巡礼古道が残っているのです。

 

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春先までなら入口がわかりやすいのですが、夏が近づくと上の写真のように雑草が生えてわかりにくくなるかもしれません。

 

「江戸巡礼古道」の立札があるので、それを見失わないようにします。江戸巡礼古道の立札のそばに、「右折」の看板があるので、それを目印にするといいでしょう。

 

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こちらの写真は、まだ寒かった時のものです。そのため雑草で見えにくい、ということはなかったです。

 

畑と山を分ける山道のような山際の道を歩きます。途中、沢のような場所もあって木で作られた即席の橋のような場所を渡ります。

 

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山沿いの道が終わるところに、道の左側に湧き水が出ている古い井戸と、祠のようなものがありました。

 

ここの湧き水で巡礼さんたちは、喉をうるおしたのか。

 

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山際の道から出ると右手から伸びている道が左にあるので、その道をまっすぐ歩きます。

 

畑が点在する住宅地の道を歩いていきます。

 

右に大きくカーブする角の畑のところに建っていた柱に、「県指定文化財 原の天狗まつり」と書かれていました。

 

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道を右にカーブして道なりに歩くと、秩父甲州往還に出ます。 そのすぐ手前、道の左に庚申塔と供養塔がありました。

 

庚申塔に向かって右側には「右 三十番」と書いてありました。 供養塔は、二十三夜の供養塔だそうです。

 

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 秩父甲州街道へ出たら、左に歩いていきます。道は右にカーブして、途中二又となる道がありますが、右へと歩いていきます。

 

双見沢というところで橋を渡ります。途中、円通寺というお寺の門標の前を通ります。

 

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左にゆるくカーブした道を歩いていくと、正面には二又になっている道が見えてきます。

 

道の左側に「地蔵尊参道入口」と書いてある道標がありました。中野地蔵尊への参道入口となる道なのだそうです。

 

この二又の道は右へと歩いていきます。

 

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 少し歩くと右手に秩父鉄道の線路が見えてくるので、線路の下をくぐって向こう側に行きます。

 

秩父鉄道の下をくぐると、すぐに二又道になりますので、そこを左の道を歩きます。

 

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道なりにすすむと、また二又があります。すると「歴史の道」の白い柱が見えてきました。

 

今度は秩父甲州往還道の分岐点です。柱に「右 往還道 左 大日向道」と書いてありました。その柱とともに、江戸巡礼古道の札です。

 

隣には、「東国高野 大日向山入口」と書いた石の道標です。

 

左の道は、大日向山大陽寺へ向かう道となります。右の道が巡礼古道です。

 

江戸時代、秩父の巡礼では、秩父札所のみならず、大陽寺や三峯神社に参拝する人が多かったようです。せっかく江戸から来たのだからとこれらの寺院や神社にお参りしたのでしょう。

 

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六所橋を渡り、住宅地の中を歩いてきます。

 

住宅へ入る道もありますが、道なり進みます。

 

六所神社もこの近くにあって、六所神社には六体の神様が祀られているそうです。この橋は江戸時代は土橋だったそうです。

 

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「民宿旅館さとじ」を過ぎて、正面に鉄工所がある変形の十字路を右に曲がります。

 

その十字路の右角に、道標です。文字が薄くなっていますが、正面には「渡船場ヲ経テ縣道ニ至ル 札所三十番秩父方面ニ至ル」と書かれているのだそうです。

 

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右の面には、「三峯山道ニ至ル」となっています。

 

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右に曲がってからは、荒川へと向かいます。

 

ゆるく左にカーブしている道ですが、私が行った時は、この先は通行止になっていました。以前は下りて行けたそうです。

 

道の先に、栃の木坂と呼ばれる坂があって、つづら折りのようになっているとのことでした。本来なら、坂を下りて河原に出て先程の道標にも書かれていたように「渡船場」へ出ます。

 

現在は、渡し船もなく、白川橋が利用されています。

 

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荒川の河原までは、下りることができなくなっていたので、とりあえず橋を渡って対岸に行き、そこからスタートすることにしました。

 

ここの道は、単に「巡礼道」と書かれていて「江戸巡礼古道」とは書かれていませんでした。

 

このことからもわかるように、江戸時代は荒川を渡って対岸に行っていたのです。現在の巡礼道であって、江戸時代の巡礼道ではないと。 

 

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三峰口駅の前を通り、白川橋を渡って対岸に行くことにします。

 

札所三十番へ向かう時に白久の串人形について説明書きの看板がありましたが、白川橋に白久の人形芝居としてイラストが書かれていたので、実際の人形芝居のイメージがつかめました。

 

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対岸に向かう途中で、贄川宿の入口を通りました。

 

ここは、「かかしの里」として知られていて住宅地の中ですが、かかしがたくさんありました。

 

家のそばに置いているかかしなので、ちょっとみると、本当に人間がいるような錯覚に陥ります。贄川宿についてはまた後ほど書きます。

 

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荒川を渡った対岸を探しに行きます。「栃の木坂の渡し」で荒川を越えた先を探します。

 

まずは、荒川の河原から坂を上がると見えるのが八幡神社、ということなので、八幡神社へ向かいます。

 

八幡神社へ下っていく道の入口には、八幡神社が開いている時間など、「八幡神社参拝入口」と書いた案内が下に落ちていますので、それを目印にします。

 

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巡礼道は荒川から坂道を上がって行ったわけですので、八幡神社も坂道を下っていった途中にあります。この写真にはありませんが、野生の猿に会いました。集団でいました。

 

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八幡神社の下に馬頭尊の石碑があるということで、馬頭尊の石碑を見つけました。神社らしき建物も見えます。

 

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八幡神社には、かなり急な階段を上らないといけないことがわかりました。道に落ちていた案内の紙にも書いてありましたが、急な坂道と急な石段です。

 

八幡神社は後で参拝するとして、まずは荒川の対岸を探します。

 

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八幡神社から下っていくとすぐに荒川が見えてきました。 荒川の対岸は、先程とは違って通行止めにはなっていませんでした。向こう側のみ通行止めのようです。

 

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おそらくこのどこかに「栃の木坂の渡し」があったのでしょう。

 

実際に荒川を渡ってみた人もいるようですが、替えの靴が無かったので、ここでは渡ることなく見るだけにしておきました。

 

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ということで、ここから荒川を渡った前提で歩いていくことにしました。

 

まずは、八幡神社に行って参拝しました。

 

手すりはありますが、かなり急な階段ですので、慎重に上り下りをする必要があります。書き置きの御朱印を電子マネー払いで払っていただきました。

 

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八幡神社の下には、馬頭尊の石碑と、石仏が4体ありました。

 

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先程も書きましたが、八幡神社の付近では野生の猿に何度も会いました。まるで先導するかのように先を歩いていて、突然のこと(猿にとっても私にとっても)ですし、大きな猿は怖かったです。

 

ここは上り坂になっていて、八幡坂と呼ばれています。

 

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八幡坂を上ったところです。

 

札所三十番から三十一番へは、二通りのコースがあります。

 

ひとつは、ここから右に行って贄川宿には立ち寄ることなく、贄川に沿っていくコース(本コース)と、ここから左に行って贄川宿を通るコース(町分コース)です。

 

贄川宿は三峯神社詣でをする人が利用していたそうです。

 

私が参考にした江戸時代のガイドブックである『秩父順礼独案内記』にも三峯神社や大陽寺のことが書かれていて当時の人たちは三峯神社や大陽寺に参拝してから札所へと行ったことがわかります。せっかくここまで来たのだから、という思いでしょう。

 

巡礼だけ、という人は、今でいうところの「本コース」だったのでしょう。

 

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まずは本コースをご紹介します。

 

本コースも町分コースも結局は大指にある諏訪神社近くの南側で合流することになります。

 

ただし、現在、本コースの一部が崖が崩落して通行不能になっているようで通ることができませんでした。そのため本コースの紹介は、途中までとなります。

 

本コースはまずは阿弥陀寺を目指します。先ほども説明しましたが、贄川の交差点を右に曲がって国道140号、秩父往還を歩きます。

 

歩道と車道が分かれている橋を渡ります。この橋でも野生の猿に出会いました。

 

この写真に載っている道標のところで曲がってしまう人が多いようですが、巡礼の道はこの先の国道の新道と旧道が分かれる分岐点の少し手前を左に入ります。

 

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ここが旧道と新道の分岐点です。

 

この先に「阿弥陀寺」と書いた看板のようなものがあるので、そこを左に入ります。

 

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まずは阿弥陀寺前の参道となる場所の石段をいくつか上ります。

 

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石段を上り、平らな場所の正面に石仏がありました。

 

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さらに先に進み、階段を上り阿弥陀寺の山門前へと歩いていきます。

 

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こちらが阿弥陀寺の山門です。

 

本来は山門から阿弥陀寺に入らずに寺の敷地を垣根のところを歩いていきますが、阿弥陀寺に立ち寄ってみました。

 

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墓地の手前にいくつか石仏ありました。

 

阿弥陀寺には、台座に「ひだり三十一ばん道」と書かれた石の観音菩薩座像があるとのことだったのですが、この石仏も座像ではありますが、台座に「三十一ばん道」のような文字が見当たりませんでした。

 

 

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阿弥陀寺の境内から巡礼道といわれる垣根の脇の道に入ってみました。

 

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本来の巡礼道は山門からこの垣根の脇の土の道を入って墓地を回り込むようにして行きます。 

 

 

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その後は、坂道を上った先の左手に送電線の鉄塔があるのが見えます。その手前の道を入っていきます。畑の脇道という感じの道でした。

 

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送電線の鉄塔脇の道を抜けると舗装された道に出ます。そこを左に入っていきます。

 

上平集落という民家が立っているところを抜けて、林の方へと歩いていきます。

 

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木立の中を歩いてきます。途中、人家もあったのですが、ほぼ山林ばかりの道を歩き、木立の中を通り抜けていきます。

 

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ガニ沢へ下る林道をしめす標識があるので、そこを左に入っていきます。

 

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ここからガニ沢へ向かおうとすると、手前のすぐのところに「この先、大変危険な箇所があり、崖の上を歩くために滑落して死亡事故につながる恐れもある」、と書かれた注意書きがありました。

 

特に台風後など崖が崩れやすくなっている場合は通行不能となるそうです。

 

崖手前のH鋼の橋があるガニ沢付近くらいまでは行けるみたいでしたが、この日は「町分コース」も歩くつもりでしたので、とりあえず「本コース」は、ここまでにして、ここで引き返すことにしました。

 

 

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次に、町分コースです。

 

先ほども書きましたが、贄川の交差点を横断し、左に曲がります。

 

左に曲がってすぐのところで、右に入る旧道のようなくねくねした坂道があるのでそちらに入っていくと、六十六部廻国供養塔や二十二夜塔など四基の大きめの石造物と、小さな石標と石仏がありました。

 

大きく左に曲がりその後右にカーブした坂道を上ると三叉の交差点になっていてそこが贄川宿となっていました。

 

ここが「町分コース」の名前にもなっている「町分」といわれる場所だそうです。

 

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三叉の道を右に入るとお地蔵様の祠が見えます。

 

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お地蔵様の前にあるニ基の庚申塔には「みぎ三十」とか書かれ、もう一つの手前にある庚申塔には「山道」(向かって右側面)と書かれています。

 

道しるべを兼ねた庚申塔です。

 

お地蔵に向かって左側の道を入って行きました。

 

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ここで少し贄川宿についてです。

 

なお、贄川宿の中は昔の宿場の感じが残っています。ここは「油屋」の前です。

 

かかしの里とも呼ばれ、至るところにかかしが置いてあります。

 

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ここは国道140号から入った秩父往還の贄川宿の入口です。このように贄川宿の説明書きなどが立っています。

 

どこにどのようなお店や宿があったのか地図もありました。

 

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さて、巡礼古道に戻ります。

 

お地蔵の左側の道を道なりに大きく右にカーブした道を歩いていきます。

 

途中には以前は宿屋だったのでは思うほどの大きな家もありました。

 

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諏訪神社の脇から林の中へと入っていきます。

 

秩父市役所の工事中の看板のすぐそばに江戸巡礼古道の道案内の札があります。

 

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山道のように思っていましたが、整備された道でした。

 

荒川西小学校の西側を通る道です。

 

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江戸巡礼古道の標識に従って歩いていきます。

 

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林の間を抜けていきます。この近くには、贄川城跡があったようです。

 

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舗装された道に出てから右に曲がって、県道を歩きます。

 

県道を歩いている途中で、右側にこの「巡礼道」の矢印が見えたら、林の方へと入っていきます。標識を見失わないようにしましょう。どこから入るのかわからなくなります。

 

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ピンクのリポンや「巡礼道」の札が下がっているので林へ入る道はすぐにわかりました。

 

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尾根道のようなところを歩いていきます。 

 

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ロープにつかまって下りるようなところもありました。

 

そこにも道を間違っていないか確認できるように「巡礼道」の札がついていました。 

 

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 沢へと慎重に下りていきます。

 

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なんとか下まで来ると、沢の水の透明さに感動しました。 晴れた日ならもっときれいに写真に撮れたと思います。

 

 

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この付近は、いくつか沢を越えるのですが、これは水の量によります。

 

雨が降って水かさが増している時は川のようになっているはずです。

 

私が行った時は、比較的雨が少なく乾燥していた時期だったので、沢の水も少なくなっていたようでした。

 

渡るときは対岸に「巡礼道」の札を確認しながら渡ります。県道から木立の中へと入ってからは、この「巡礼道」の札を頼りに歩いていきました。 

 

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沢を渡るたびに、「巡礼道」の札やピンクのリポンを確認します。

 

わかりやすく整備されているので、道を間違えることはないと思われますが、予め地図で確認しておきましょう。

 

 

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巡礼道の札は、木の下のほうに架かっているときもあります。 とにかく、この「巡礼道」の札が頼りでした。

 

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手前の沢には水がありましたが、その先は乾いて通りやすかったです。

 

まるで川岸のサイクリングロードのように整備されている場所もありました。

 

それでも川のような場所はあるので、ここが贄川なのだと思います。この写真を撮った時は水が少なくなっている時期(春先)でしたが、梅雨や台風時期だと状況がまったく違うでしょう。まったく別の光景になるかと思います。

 

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この沢を渡る山道の続くところで、阿弥陀寺を経てガニ沢を通ってきた「本コース」との合流地点があります。案内の看板が合流地点であることがわかりやすいらしいのですが、写真に撮りそこねてしまいました。

 

その後は、Uターンするように道が続き、栗林と言われる場所を通って坂を上ります。ここにも「巡礼道」の札が下がっています。

 

 

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 坂を上ると目の前が開け、神社が見えてきます。正面に見えるのが、大指の諏訪神社です。

 

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思ったよりも簡素な造りの諏訪神社でした。古い住宅のような感じがします。

 

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巡礼道から外れますが、諏訪神社に立ち寄ってみました。神社ですが、石仏や石碑などがありました。 

 

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いつもの「巡礼道」の札ではなく、黄色い札に「大指ー31番」と書かれて札所31番への道が示されていました。

 

埼玉県の歴史の道報告書では、谷筋の道と書かれていて、川の中を歩くような場所もあったみたいなのですが、実際に歩いてみたら、谷筋の道、という場所がわからず、この札が指し示す先へとまっすぐ歩きました。

 

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まっすぐ行くと、大指の集落なのでしょう。人家がありました。

 

突き当りのところで私は間違えて、右へ歩きかけていたのですが、この江戸巡礼古道の札を見つけ、左に曲がって行きました。 31番寺の方向です。

 

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 大指の集落から県道へと出る道を歩いて行きます。ここは右側が切り立った崖のようになっていました。

 

左にカーブした道を歩き、途中、橋のようになっている場所を抜けて今度は右へカーブしてと曲がりくねるのですが、道なりに進んで行きます。県道まで出たら、開けて明るい道になるなと思いました。

 

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県道に出る手前の民家前を通りました。この家の庭先にあると言われる「三体の地蔵尊(寺坂の三体地蔵)」が見つからなかったのですが、巳待塔は見つかりました。

 

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県道に入ってから600メートルほど歩くと左に一里塚があって、そこに榎が植えられている、とのことでしたが、一里塚自体がわかりませんでした。

 

一里塚の少し先に観光案内の看板があるとのことなのです。おそらく上野沢のバス停の手前ではないかと思います。

  

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犬のブリーダー場のようなところを抜けてすぐの左側にお地蔵が立っている場所がありました。ここのは、比較的最近作られたお地蔵様のようです。

 

 

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 集落のような人家が何軒かある場所を通っていきます。半鐘みたいな鐘です。

 

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天王様と呼ばれている八坂宮の前を通ります。

 

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 八坂宮のところには、巳待塔がありました。

 

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八坂宮の手前は以前は巡礼宿だったと思われるような立派な造りの家がいくつかありました。

 

 

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 県道を400メートルほど歩くと、県道の旧道と新道とに分かれる場所に出ます。旧道のほうを通っていきます。

 

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かなりの急な坂道で、馬坂と呼ばれているそうです。

 

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その坂道の途中には、二十三夜塔とお地蔵の祠がありました。 

 

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馬坂を上り切って右に曲がると正面に神社のような建物が見えました。

 

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その神社のような祠の手前には、双体道祖神らしき石造物がありました。このあたりには、かつては茶屋があったそうです。 

 

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左に曲がる角地のそばに、いくつか小さな祠が並んでいました。

 

こちらが「間庭の甘酒まつり」で知られる天王様です。

 

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間庭の甘酒祭りは、三百数十年前から行われている伝統の祭りだそうです。

 

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その10メートルほど先の左側には、甲冑塚です。この説明書きの裏手に塚があるようでした。

 

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甲冑塚の数メートル先、右手に小森川へ降りる道があります。

 

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川まで降りる道へ入るところも非常にわかりにくいのですが、よく見ると、このように「巡礼道」の札が架かっています。

 

舗装された道を歩いている時からずっと右側を注意してみると、「巡礼道」の札がわかると思います。

 

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しかしその先の巡礼道がわかりませんでした。 川へ降りる途中までは行けたのですが、道がわからなくなってしまいました。本来はここから川へ降りるのですが。

 

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下を流れるのが小森川です。他の人のブログを読むと、地元の人に案内してもらった人は下まで行ける道がわかったそうなのですが、私はとうとうわからないまま諦めて元の道へと戻りました。 

 

 

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仕方なく対岸へと行きます。遠回りをして小森川の対岸へと歩きました。

 

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これが先程、道がわからなくなった場所から見えた小森川です。

 

わざわざ川を渡らなくても、私のように少しばかり遠回りをすれば巡礼道には行けるようになっていました。

 

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小森川の対岸から向こう岸の先程降りるはずだった場所を見ました。

 

私は見失ってしまいましたが、対岸に道はあるように見えました。しかし向こう側では川へ降りる道が不明でした。 どこか途中が切れてしまっているのかもしれません。

 

 

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こちらが小森川の対岸から見た光景です。

 

小森川は、私が行った時は特に水かさが少ない時期だったためか、浅い川にみえ、裸足になれば渡れそうにみえました。

 


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最初、民家の庭先に出てしまったのですが、対岸には道路へ上る道、すなわち岸から上がった時に歩く道はありました。

 

向こう側の対岸もそうなのですが、金網と金網の間が開いています。

 

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とりあえず、小森川を渡ったことにして、続きを歩くことにしました。

 

川を渡ったことにしたので、岸から上がり、その道をまっすぐ歩いていきます。

 

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畑の中の道を歩くと四つ角に出ます。

 

その右手に霊符尊碑がありました。その隣には道標です。諏訪神社や甲冑塚、道明塚と書いてありました。 

 

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四つ角をまっすぐ歩いていきますと、桑畑らしき場所に祠がありました。

 

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さらに道なりに進むと、お地蔵を祀っているようなお堂と念仏講中の石仏がありました。

 

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さらに道なりに進んでいくと、間庭の甘酒祭りの天王様の手前、馬坂に入るところまで歩いていた県道に出ます。県道に出ると車の往来があります。

 

県道を北上していくと、小鹿野町の町営のバス停が見えてきます。

 

バス停の先は、「旧近藤銘醸」という酒造です。建物もそうですが、蔵も残っていました。

 

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薬王山實泉寺の寺標と四阿屋山へと入る登山口である桜本コース入口を見ながら、県道を歩きます。春先は桃の花がたくさん咲いている場所もありました。

 

さらに先にいきますと、道の駅や両神温泉薬師の湯がある広い場所(駐車場を含む)の前を通ります。

 

 

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「 薬師の湯」のお向かいには、まだ新しい石仏が建っていました。

 

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さらに先に進むと、左側に法養寺が見えてきます。秩父十三佛のひとつです。

 

法養寺の薬師堂は埼玉県の指定文化財になっています。

 

室町時代末期の建物です。山門前には「日本三体薬師尊」と書かれた石標が建っていました。

 

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山の薬師様と古くから信仰されてきたとのことで、札所三十番から三十一番の中間地点にあります。

 

贄川沢のあたりで山の中の道を歩いたので、法養寺が終盤のような感覚でしたが、ここでやっと半分まで来たのかと長い道のりのことを思いました(まだまだ先は長いのです)。

 

江戸時代の秩父札所に関する書物には、必ずこの法養寺薬師堂のことが書かれていたとのことです。

 

それだけここは巡礼さんが立ち寄るし、目印にしていた場所なのでしょう。薬師堂には秩父札所の巡礼さんたちが書き残した墨書きを見ることができます。

 

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法養寺の薬師堂のすぐ隣には両神神社がありました。

 

さらに県道を北上すると、駐在所や郵便局などがあり、両神庁舎前の交差点があります。交差点の左角に道しるべがあるそうなのですが、これは見つかりませんでした。

 

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両神庁舎の交差点に行く手前、駐在所と両神ふるさと会館の間の道があるので、そこから左に曲がり、そこから入るのが巡礼道です。

 

その道を歩くと、正面に小鹿野町両神庁舎、以前の両神村役場前に出ます。

 

両神庁舎から左に少し歩くと、正面に両神中学校のある道が見えます。その入口には、二十三夜待供養塔と、左側に「五合峠ヲ経テ三田川村ニ至ル、札所三十一番道」と書かれた道標があります。

 

供養塔には「ミぎ三十一はん」「左 薄須川」と書かれています。

 

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両神中学校まで歩いて、左に折れます。中学校の校庭に沿って右へと歩いていきますと、林の間の道に出てきます。

 

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山道のようなところですが、道は整備されています。

 

山の中の道という雰囲気のところを抜けていきます。ここは、慶長慶安の検地帳には「順礼海道」と記載されている道なのだそうです。なぜ「海」の文字を使って、街道ならぬ、海道なのか。

 

巡礼の文字も昔はなぜか「順礼」の漢字になっていました。地元の人は現在、ここを「巡礼街道」と呼ぶそうです。

 

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その「巡礼街道」と呼ばれる古道を歩いて行くと目の前の木々の間から橋が見えてきて、川があることに気がつきます。

 

春先のまだ寒さが残る頃だったので、木々が生い茂っていなかったために橋があることに気づくことができました。

 

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 薄川(すすきかわ)にかかる木橋です。

 

以前、他の人のブログで見た複数の写真で見たものはもっと古い橋でしたが、現在はできたばかりのような真新しい木橋でした。

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 薄川の水は澄んでいて透明でした。このように、板も新しく、できたばかりに見える橋です。

 

 

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川を渡って対岸からは、かなり急な坂道です。すぐ隣は川の岸辺の工事現場でした。

 

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坂を上りきったところは、坂戸の集落と呼ばれています。急な坂なので、何度も滑りそうになりました。

 

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坂を上ってからはまっすぐ歩いて、県道に出ます。県道のそばには、道標がありました。

 

もと来た道を指し示す部分は、「薄川を経て両神村役場」となっていました。県道に出たら、右に曲がって県道を歩きます。

 

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県道を少し歩くと、道の右手に石燈籠や石造物がいくつか見えてきました。

 

桜や桃の花が咲き始めた頃のなので、きれいな光景に巡り会えました。

 

 

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馬頭尊の石碑と、文政年間の秩父坂東西国四国供養塔です。

 

その隣は、竹内以志女墓となっています。竹内いしは、埼玉ゆかりの偉人として知られていて、緑綬褒章を与えられています。

 

明治の七大孝子の一人として教科書にも載っていたそうです。

 

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石造物のある場所から左に入っていき峠に向かう道になります。

 

春だったので、菜の花、花桃の花、桜の花と花が咲き乱れる場所(本当にラッキーな光景です)を通って坂を上っていきました。

 

坂道の入口付近に先ほどの竹内いしに関する説明書きの看板がありました。以前は坂道のところにお墓があったようです。 

 

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道なりに進んでいきます。ここが権五郎落峠と呼ばれている場所です。

 

花が咲いている時だったので、明るい感じがしますが、いつもは杉の木の木陰で暗い峠道のようでした。思ったよりも長い道でした。

 

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峠道を下りていき、飯田橋を越えて国道299号に出ます。

 

本来の巡礼道は飯田橋まで来る前のところで赤平川を渡って、対岸の土手を斜めに100メートルほど上って国道に出るとなっています。

 

しかし、赤平川へ降りる道が不明になっていました。

 

後で調べてみると、飯田八幡神社の元宮があった場所ではないかと思います。飯田橋を渡ると、正面に「31番観音院」と右への矢印が書かれた看板がありました。 

 

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飯田橋を渡り、国道299号を歩くとしばらくして、右手に小さな祠と石仏、巳待塔などいくつかの石碑が置かれている場所がありました。

 

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建物は、お寺というよりは古い神社かと思ったのですが、置いてある石仏や石碑を見ると廃寺なのかとも思いました。

 

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赤平川を渡って対岸に来た場合は、対岸の坂を上ってこの場所に着きます。

 

ここには、道しるべの石と細道を挟んだ隣には飯田十王堂があります。

 

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この道しるべの石は、三面になっていて、「左 三十番 三峯山」「右 三十一番」「右 三山 信州道」と書かれているそうなのです。

 

この写真では右側に見える面に「左」その下に「三十番 三峯山」と書かれ、「右 三十一番」と書かれている面も見えます。

 

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壁に挟まれて表側から見えない面には「右 三山 信州道」 と書かれているはずですが、石壁のすぐ近くで写真も撮りにくい上、文字の確認しにくいです。

 

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小道を挟んだ隣の飯田十王堂です。「十王堂」と書かれた額があるのですぐにわかります。

 

中には木彫りだと思うのですが、神様なのか王様なのかが並んでいました。

 

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先程の今はなくなっている巡礼道の一部ですが、初夏の頃に再訪した時、少し見てみました。

 

赤平川から上るほうの岸からなら、川のほうまで行けそうだったので、行って見てみることにしました。 

 

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やはり対岸からの道がわからなかったのですが、赤平川は見ることができました。

 

対岸から渡ったことにして、坂道を上り、現在の国道299号の道に出る、ということは雰囲気を掴むことはできました。

 

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赤平川自体は、それほど水深い川ではないようでしたので、江戸時代は渡し船ではなく、そのまま渡ったのだろうと思いました。

 

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この坂道を上ると、岸辺を上がることになり、その上がった正面に道しるべの石や飯田十王堂があります。

 

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ということで、現在残っている巡礼古道に戻ります。

 

飯田十王堂のところから右に行き、さらに国道299号に沿って歩いて行くと、飯田八幡神社がありました。

 

先程の権五郎峠からの下り坂で赤平川を渡るところにあったと書いたのは飯田八幡神社の「元宮」でしたが、現在は、ここに飯田八幡神社があるわけです。

 

1年の締めくくりとなる年末12月に行われる鉄砲まつりのことが書いた柱が建っていました。

 

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三川田小学校前のバス発着場所を通り過ぎ、左に三田川郵便局、右に大竜寺温泉のスタンドがあるところに左へと入る道があります。

 

そこには、千部供養塔があり、千部供養塔に向かって左側に「三十一番道」と書かれています。

 

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右側の面には「右 小かのみち」と書かれています。国道から左斜めに入る道で、岩殿沢へ向かう道として知られていたそうです。

 

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道なりに進み突き当りのT字路に出る手前に、馬頭尊の石碑が金網の向こうにありました。

 

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草むらの陰にあるので、見落としやすい場所にあります。

 

突き当りからは右に折れ、宮平橋へ向かいます。

 

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本来は、宮平橋のある場所よりも少し左側に寄った場所から岩殿沢を渡って向こう側に行ったそうです。

 

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宮平橋を渡って、左に曲がって少し歩くと、石碑が見えてきます。

 

ここからは三十一番、観音院の参道、とわかるように、「三十一番入口」の石碑が建っていました。江戸時代に岩殿沢を渡って上ってきた場合、石碑のあるここの場所に出るようになっていたそうです。

 

右の側面には「従是二十五丁」と書かれていて、丁目石とわかります。

 

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札所三十一番へ向かうあたりの集落は大きめの石壁がありました。

 

三十一番観音院の前にある仁王様も凝灰質砂岩という石造のものです。岩殿沢石は、古くから秩父で使われてきた石なのだそうです。石はふんだんにあるのでしょう。

 

 

 

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まずは花桃街道で知られる岩殿沢の橋に向かいました。赤い橋なのですぐにわかります。今回は、あじさいの時期の写真を出しています。別のブログで、寺院の紹介をしたときは、花桃の時期の写真を出しました。

 

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橋の手前には、石燈籠など石造物や祠がありました。 

 

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ここが石経塚と言われる場所なのだと思います。

 

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岩殿沢の橋を渡ると、いくつか石造物がありました。ここに庚申塔があるとのことだったのですが、見当たりません。周囲を探してみることにしました。 

 

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石造物の後ろに、さらに小さな橋があり、そこを渡ると庚申塔がありました。

 

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庚申塔と、その隣には大勢至菩薩の石碑がありました。

 

小さな石造りの祠もありました。

 

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岩殿沢の橋を渡ってすぐのところには、たらちね観音堂があります。

 

その手前に不動尊があるそうなのですが、不動尊は見当たらず、小さなお堂のような建物がありました。

 

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たらちね観音堂から歩いてすぐのところには、大日堂です。

 

お堂の中には、大日如来座像と双体道祖神が祀られています。

 

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大日堂の外には、石仏3体と石塔2柱がありました。これらは、安永、文化年間のものだそうです。

 

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大日堂の外、向かって右には他にもお地蔵様や小さなお堂などありました。

 

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花桃の時期もいいのですが、あじさいの頃も道添いに咲くあじさいが綺麗です。

 

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しばらく歩いて行くと、道の左側に、「七丁」と書いてある丁目石が草むらところに見えました。岩殿沢のところからは900メートルの場所とのこと。

 

 

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さらに歩くと、右側に「東西」と矢印が書いてある道しるべ石がありました。

 

西の字の下には、「札所三十一番」の文字が見えます。ほかには倉尾村馬上の文字が見えます。

 

東の字の下には「大字飯田」という文字が見えました。

 

小鹿野町は、倉尾村、三田川村、小鹿野町が一緒なってできた町だそうですので、石標には合併前の名前が残っていました。

 

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茶屋の手前も、あじさいがたくさん咲いていました。

 

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茶屋が2軒並んでいる場所に着きました。まずは、観音茶屋です。

 

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観音茶屋から少し歩くと、十二丁目石と馬頭観音像です。

 

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文化年間のもので、なかなか可愛らしい馬頭観音です。

 

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次の茶屋は、山田家です。

 

その先に地蔵寺が見えました。道の両側には数が数えられないほどの多数の水子地蔵です。 山の上のほうまで水子地蔵はありました。

 

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水子地蔵の前には、六地蔵尊もありました。 花桃の時期に来た時は桜も咲いていて、水子地蔵の一帯が桜の花が咲き乱れる場所になっていました。

 

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 地蔵寺の先には観音山トンネルが見えますが、その手前に道しるべ石です。

 

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向かって左には、秩父郡三田川村大字飯田字岩殿沢と書いてあります。

 

上部に矢印があって今までやってきた方向は、「栗尾ヲ経テ小鹿野町ニ至ル」と書いてありました。

 

そして、これから行く方向には「札所三十一番及牛首峠ヲ経テ倉尾村ニ至ル」と書いてありました。

 

 

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観音山トンネルの入口に向かって左側には、馬頭観世音の石碑があり、その石碑の向かって右の面には、「十四町目」(丁目ではなく)となっていて、この石碑は丁目石でもあるようでした。

 

その隣には、お地蔵様です。お地蔵様のほうが目に着くと思いますが、隣の四角い石碑が馬頭観音の石碑です。

 

本来は観音山トンネルではなく、この馬頭観世音の石碑の隣にある左の小道からぐるっと回って行くのが巡礼道です。

 

観音山トンネルの入口からだとわかりにくいのですが(この写真の時期、6月あじさいの時期、特に草が生い茂っていてわかりにくいです)、出口からだと道が通っているのがわかります。

 

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観音山トンネルを出たすぐのところに、十五丁目石があるそうなのですが、見当たりませんでした。石の柱があったのですが、文字が書いているように見えなかったのです。

 

その先の大竜寺温泉の源泉地がある手前の橋のところに、十八丁目石がありました。

 

この十八丁目石の付近は西国、坂東、秩父の百観音の札所名が書かれた札が掲げられていました。ここから見えるのは、坂東札所で、長谷寺、水澤寺、満願寺とあります。

 

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深い谷のような場所を抜けると、いつもの南無観世音菩薩の赤い旗が見え、右手に札所三十一番、観音院の仁王門が見えてきます。

 

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札所三十番から三十一番までの長い道のりでしたが、ようやく到着です。

 

さすがに札所間の距離が一番長い区間と言われるだけあって、やっと着きました。

 

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 仁王門に向かって左には、「三十一番入口」とあり、渋沢誠室書の石碑がありました。仁王様の供養塔も兼ねているようです。

 

そこには渋沢栄一の伯父と書いてありました。渋沢宗助のことです。

 

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仁王門の手前右側には、「三十一番」の石碑です。

 

石燈籠や供養塔らしきものもありました。仁王門の右側に、「右 順礼道」の道標があると埼玉県の歴史の道報告書に書いてあったのですが、それは見当たりませんでした。どこに行ったのでしょう。

 

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ここの仁王様は、一本石造りでは日本最大の仁王立像になるそうです。

 

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ここまで来るのも長い道のりでしたが、本堂までは、さらに296段の石段を上らなければなりません。

 

石段を上り始めるところには、「廿一丁」の丁目石がありました。

 

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長い石段だからなのか、天保14年に奉納の石段供養塔もありました。石段を作ったこともすごいことですが。

 

この供養塔は今の嵐山町に住む人が奉納したようです。

  

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南無観世音菩薩の赤い旗もそうですが、かなりの数の短歌が石碑として奉納されていました。

 

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 大きな岩のような下に廿二丁目石がありました。

 

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さらに上って、石仏の隣に廿三丁目石を見つけました。

 

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石段の脇には十二支霊場もありました。

 

千手観音、普賢菩薩、虚空蔵菩薩、大日如来、勢至菩薩、文殊菩薩、阿弥陀如来、不動明王の像が並んでいました。

 

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 廿四丁目石は、比較的新しいもののようでした。

 

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途中には、秩父歌舞伎の先祖である坂東三十郎建立の碑がありました。

 

この場所に建てたのですね。南無阿弥陀佛と書いてありました。

 

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石段の最後には、廿五丁目石がありました。こちらも比較的新しい石碑です。

 

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廿五丁目石で札所三十一番の観音院に到着となりますが、観音院には石仏が多いのでいくつかご紹介します。

 

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階段の上まで行くと、目の前には鐘撞き堂があり、すぐ後ろを振り返ると、観法法印即身仏墓がありました。

 

「當院十六世 権大僧都法印観法」と書いてあります。 

 

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観音院は石仏が多い札所です。

 

滝の上洞窟石仏群もあるのですが、そちらには崩落の危険があるということで、行けませんでした。

 

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岩屋の中に弘法大師像があるのが見えました。

 

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観音院の本堂前の左側には宝篋印塔もありました。

 

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観音院は、聖浄の滝が有名なのですが、今は水の量が減ってしまっています。

 

滝まで行く手前には埼玉県指定史跡になっている鷲窟磨崖仏があります。岩肌に小さく掘ってあるのがわかります。滝に気を取られてしまいますが、滝の手前、岩壁のほうを見るとわかります。

 

これらは室町時代に作られたものと推定されていますが、弘法大師が爪で掘ったという伝説があります。ここの岩肌も、新生代第三紀層の礫質砂岩となっています。

 

群像としての磨崖仏としては埼玉県では他に例がないという珍しいものです。 

 

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聖浄の滝の下には不動明王の像がありました。他にも石仏や石碑があります。

 

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納経所の前には、高桑闌更の句碑があります。

 

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納経所の前には畠山重忠の家臣である本多次郎親常が射った矢が跳ね返るところに聖観音像があったという由来の奉納額絵が掲げられています。

 

納経所のすぐ脇を通って東の奥の院に行けるようになっています(西奥の院のほうは現在通行止め)。

 

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この時も東の奥の院まで行ったのですが、長くなりましたので奥の院についてはここでは触れません。案内図をみていただけば、だいたいのところはわかるかと思います。

 

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なお、観音院の先はほぼ道が途絶え、駐車場になっています。この先は、舗装された道から山道になります。

 

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 この先は、牛首峠へつながる山道になります。ジオパーク秩父の説明でも礫岩層のことが書いてあります。

 

鬼滅の刃が流行っていた頃、この牛首峠へつながる山道の途中に炭治郎が二つに切った岩に似ている岩があるとして、ニュースにもなっていました。全国には、似たような二つに切った岩があるそうなのですが、そのひとつ、として知られるようになりました。

 

また、山登りが好きな人たちや古い城跡めぐりが好きな人達は、さらに先、牛首峠から日尾城跡を通って、観音山の山頂まで行くそうです。