前回の三十番から三十一番は、札所間の距離が最長のうえ、谷あり、峠ありの変化に富んだ巡礼道でした。
次の三十二番までの道のりも、かなりの長さになります。
まずは、来た時の道をバス停近くまで戻ることになります。引き返すことになるので、見忘れた場所など再確認できます。
再度、地蔵寺や茶屋の前を通って戻っていきます。
行きの時よりも観音山トンネルの脇を通る巡礼道(帰りは右側に)はわかりやすくなっていました。
文字が見えなかったので、これが15丁目石なのか、よくわからないままでしたが、このような石がありました。
整備されたトンネル内ではなく、昔のように巡礼道を歩きます。行きの時も紹介しましたが、これが観音山トンネルの脇の古道です。
岩殿橋近くにある、たらちね観音堂は昭和になってからの開山とのことなので、江戸時代には無かったわけです。
今とは違った光景が見えていたのでしょう。
来たときと同じく岩殿橋を渡りますが、来る時に渡った宮平橋までは行きません。栗尾のバス停のほうへと向かいます。
三十一番入口の石碑の前を通ってそのまま、まっすぐ歩きます。
途中、牧場があったり、神変嶽という場所があったりと江戸時代とは違った景色を見ながら歩いていきます。
柏木橋の手前から脇道に入り、栗尾のバス停まで行く途中、「巡礼道」の札が架かっているところに道しるべの石柱がありました。
「左 上飯田三山」「河原沢道」の文字が見えました。
こちらの面には「右 三十一番岩殿沢」「倉尾道」です。左側には「東 小鹿野町」となっていました。
すぐ隣が車も通る道ですが、こちらの細道が旧道のようでした。以前は栗尾のバス停近く道の左側に「観音院入口」の石標があったそうですが、その石標は見当たりませんでした。
今あるのは、新しい寺標のようで国道そばの看板の裏側に、大きく高さがある石柱で「鷲窟山観音院入口」と書いてあります。
バス停近くには、十一面観音堂がありました。
道路に面しているとはいえ、個人が建てたようなこじんまりとしたお堂です。
そのお堂のそばにはいくつかの石造物、馬頭観音、石塔、石灯籠がありました。
ここからは国道299号に沿って歩きます。途中、ガイドブックや歴史の道の報告書にも書いてない石碑もありました。
JAちちぶアグリホール小鹿野の先、橋の手前には石仏群がありました。庚申塔やお地蔵様のような石仏で、「勘定木橋石仏群」と呼ばれているようです。
勘定木橋は、新しくなったようで、「埼玉の砂防発祥地」の碑がありました。
さらに歩くと、国道の左側に光源院がありました。
小鹿野町指定文化財である「武田の高札」があるお寺です。武田軍の掟書きで乱暴狼藉を禁じるものでした(当時は高源院と書かれていた)。
武田家重臣の山県三郎兵衛の名が記されていて、武田家の朱印が押されているそうです。光源院に少し立ち寄ってみました。
光源院は、江戸時代のガイドブックである「秩父順礼独案内記」にも「松坂の光源院」と載っていました。
武田氏重臣である逸見氏が開祖と言われています。山門も立派で歴史が長いお寺の風格がありました。
越屋根みたいな屋根がついた「光」の文字が書いてある白い蔵がありました。
さらに国道を歩いていきます。
黒海土の交差点を越えて、和田集会所の近くに、「和田の石仏塚」があります。
石仏4体と石塔が立ちます。如意輪観音や馬頭観音の石像が見えます。
和田の石仏群のところから右の脇道に入って行きます。旧道のような様相です。
和田集会所のところには、小鹿野町指定の有形文化財である木造聖観音立像の説明書きがあったのですが、集会所の中に収められているのでしょうか。どこにあるのか場所はわかりませんでした。
旧道を通って住宅街を抜けます。その途中にもガイドブックなどに載っていない石碑がいくつかありました。
旧道から県道に出ます。小鹿野町の祭りで使われる山車を収めているような蔵があるのがみえました。新原笠鉾です。
西武バスの小鹿野車庫前や小鹿野高校前を通って行きます。五叉路になっている原町交差点を過ぎ、小鹿野町のメイン通りのような場所を歩きます。
江戸時代からあった小鹿神社です。小鹿神社へは参道が通っています。
巡礼道から外れますが、小鹿神社に行ってみました。
小鹿神社の場所は本来は、ここではなく現在の社殿は移転して来たものです。私が読んでいる江戸時代のガイドブック『秩父順礼独案内記』には東の山の方に諏訪明神があると書いてます。諏訪明神が今の小鹿神社がある場所のことだと思うのです。
後で小鹿神社の元宮について書きます。昔あったのは、元宮の場所でしょう。
小鹿神社の参道と思われる路地を歩きました。国道299号に向かって歩きます。
小鹿野町には今でも井戸が残されています。路地にあった八坂神社そばにも井戸がありました。八坂神社の起源は比較的新しいそうで、明治初期に疫病が流行って建てられたとのことでした。
手前だけでなく庚申塚の奥にも井戸がありました。小鹿野町の井戸は今でも使われている井戸もあるそうです。
八坂神社の前に、小鹿神社の場所は以前は、諏訪神社が祀られていたことから諏訪大門と呼ばれたことが書いてありました。
やはり江戸時代のガイドブックのとおり、東の山のほうにあったのは、諏訪明神、すなわち諏訪神社だったのです。
国道299号のすぐ手前から見た小鹿神社の鳥居です。
小鹿神社は明治43年の洪水でこの地に移り、諏訪神社を合祀したそうなので、やはり江戸時代はここにあったのは諏訪明神だったのですね。諏訪神社自体は安永4年の建立とのことです。
小鹿神社を参拝したら、また、巡礼道に戻りました。
原町の交差点近くに戻り、また巡礼道を歩きます。
小鹿野町の中心街は県道を挟んで、北裏通りと、南裏通りがありました。県道をしばらく歩くと、またもや寄り道です。今度は十輪寺です。
山門には埼玉県指定文化財の仁王様(木造金剛力士像)があります。
仁王様も文化財としては有名なのですが、そのほか、日本でひとつしかないと言われる石像塔のカルラ王(迦楼羅天石仏)が十輪寺にあります。
江戸時代末期のころのものと推定されているそうです。カルラ王は空想上の怪鳥で、笛の音で悪い龍を退治してくれるそうです。
全体像が鶴の形をした松がありました。
十輪寺には、そのほか時の鐘、芭蕉句碑もありました。
秩父十三仏巡りの薬師如来の納経所はここ十輪寺になっています。
札所三十番から三十一番に向かって歩いていた時にも書きましたが、途中にあった「四阿屋山法養寺の薬師堂」に立ち寄りましたが、そこの御朱印はこちらの十輪寺にていただくことになります。
寄り道ついでにもう一つ。十輪寺から小鹿野町のメイン通りに戻り、道の右側(十輪寺のお向かい)から脇道に入ると、お不動様が安置されている不動堂もあります。
成田山から勧請されたというお不動様です。
私が行った時は、ちょうど修復中だったようで、網がかけられていましたが、参拝できるようになっていて中に入ることはできました。
扁額には「不動尊」とだけ書かれていました。
古い商店街のある県道を歩いていくと、通りの左側に八坂神社もありました。
小鹿野町役場のほうに向かってさらに歩くと、途中で二又に分かれる道がありますが、県道のほうを歩いていきます。
すぐに南裏通りに入って、小鹿神社の元宮を目指します。
埼玉の歴史の道報告書によると、巡礼道は小鹿野町役場手前で大きく右に曲がると書かれていたので、旧小鹿神社である小鹿神社の元宮のほうに向かう道道が巡礼道とのことでした。
移転したので、旧小鹿神社とも呼ばれる小鹿神社の元宮です。
本殿だけが元の場所に残っています。唐破風の向拝が着き、精巧な彫刻が見事です。
ここから駐車場を抜けて、小鹿野町役場の裏から県道に戻りました。
小鹿神社の元宮から庁舎の南側を回り込んで また県道に出るとそこには、馬頭観音の像があるということで、石碑を見つけました。 馬頭観世音の像のそばにはお地蔵様もありました。
県道を挟んで斜め向かいには、小鹿野町の昔の名前、巨香郷の碑(巨香郷之碑)がありました。小鹿野町の歴史は古く、平安時代に編纂された「和名抄」に巨香郷という記載が見えるということです。
県道を歩き、左手に小鹿野郵便局があり、その先を右に曲がって細道に入っていきます。
入るとすぐに畑のところに白山神社の鳥居があるのが見えます。角には、庚申塔があって、いつもの「巡礼道」の札がかかっていました。白山神社前を通り、道なりに歩いていきます。
途中、お地蔵様の祠がありました。
さらに欅の大木もありました。中島の大ケヤキと呼ばれているそうです。
以前は、ここから赤平川へ降りる道まで石畳が敷かれていたそうです。
道なりに歩いていくと途中で二又がありますが、赤平川へと降りる道を歩きます。
この日は、峠を越えるには遅い時間だったので、赤平川のところまでとして別の日にこの先を行くことにしました。
金圓橋の途中で引き返しました。冬の時期だったので、赤平川の周りは枯れ木ばかりが見えています。
再度、赤平川から出発です。今回は春だったので、前回は葉っぱも落ちてしまっていた大ケヤキにも葉が生えはじめていました。
前回と同じく二又の道を右側の下に下りていく道を歩きます。
前回、写真を撮るのを忘れたのですが、赤平川へ降りる途中に、小屋のような建物があり、その中に地蔵菩薩座像があります。
台座に「道 本回国供養 三十一番」、そして台座左側に「右 三十二ばん道」と書かれているそうなのですが、ところどころ石が削り取られていて字が読める部分と読めない部分がありました。
地蔵菩薩座像の建物を過ぎてすぐ右に曲がり、金圓橋を渡ります。前回と同じ風景も春になると違って見えます。
金圓橋を渡たり、赤平川を越え、対岸へ行きさらに先へと歩きます。
赤平川を越えて、小判沢に沿って歩きます。
途中の集落の道沿い右側に、「こんせい宮」(金精宮)がありました。
こんせい宮のお向かいの家は昔は宿屋だったのではと思うほどの昔の造りの大きな家でした。
小判沢の集落を通り、小判沢の橋を越えます。手前には道標のようなものがありました。
左手に矢印が見えてきて、大日峠への山道に入ります。
いつもの「南無観世音菩薩」の旗があるので大日峠への山道に入る場所はわかります。
木の札に何か書いてあるようなのですが、その上に新しく書かれたものが貼ってありました。「至 札所三十二番」と「熊、出没注意」です。
その下には「札所三十二番」と木札に縦に書いてありました。
春ですが、まだ寒い日もあるのにこの地区に熊は出ていたようで、熊による引っかき傷が木に残っていたと聞きました。
この日は、ハンターの猟銃の音が遠くで聞こえていました。音で脅して人里に出ないようにしているのでしょうか。
分かれ道やわかりにくい場所には「南無観世音菩薩」の旗が立っていますので、それを目印に歩きます。
木橋を渡って先に進みます。
山道は峠までは1キロほどの道だそうですが、後になって思うと、けっこう長く歩いた感じがしました。
沢を渡る先には南無観世音菩薩の旗です。
これらの沢はすべて小判沢なのでしょうか。
とにかく南無観世音菩薩の旗を目印に沢を渡り、歩いていきます。
沢の水は透き通ってきれいな水が流れていました。
途中お墓のような石碑が集まっている場所があり、そこには「辯才天(弁才天)」の石碑がありました。
沢の手前にはピンクのテープが、渡る先には南無観世音菩薩の旗です。これらを目印にします。
山道には春の草花が生えていて、寒い日でしたが春の訪れを感じることができました。
ここからは沢越えよりも山のぼりです。
峠に行く前は迷わないか山道を心配していましたが、数多くの「南無観世音菩薩」の旗があるので道はわかりやすかったです。
歩き巡礼の人はいるのかと思っていましたが、道ができているのはわかりました。
途中、道が崩れているような部分もありました。
沢沿いの道を歩いて行きます。ここでは道案内の立札が倒れてしまっていました。
春とはいえ、まだそれほど草木が生い茂る時期ではなかったようで、峠道に入ると花を楽しむことは少なかったです。
丸太橋のところには、いつもの「巡礼道」の札です。
山道を迷わないようにと、南無観世音菩薩の旗や巡礼道の札を多めに掲げているようでした。ありがたいことです。
大日峠頂上約10分の札がありました。
峠道に入ってから1時間ほどの道のりなのだそうですが、頂上までは、けっこう長く感じます。
小判沢地区は、やってきた方向ですので、札所32番方面へと進みます。まだまだ上ります。
上り坂の終わりが見えてきました。
大日峠の頂上に到着です。
案内の方向板が立っているお向かいに新旧の石造りの大日如来座像です。
大日如来座像の裏にはまだ上へと登れそうな場所もありましたが、さらに高いところに上ることなく、このまま札所32番へと下ります。
上に屋根がついている方が新しい大日如来座像です。
頂上には、他に大正八年の道標が建っています。
「従是東南秩父郡長若村」と書いてあります。他の面には、矢印とともに「小鹿野道」「札所三十ニ番柿ノ木久保道」と書いてあります。
峠は特に見晴らしのよい場所でもないので、札所32番へと下っていくことにしました。
最初は杉木立の暗い道でしたが、じきに明るい道になりました。
下りは距離が短く感じました。行きは峠まで1時間程度というのですが、私としては長く感じました。
途中の道の左側には六十六部供養塔がありました。
すぐに人家が見えてきました。早めだと思うのですが、シャガの花が咲いていました。
沢沿いの道です。峠道も終わりとなります。
矢印が多くある案内板のところに来ました。
逆打ちですと、ここから峠道に入ります。「柿の久保の地蔵尊」と「順礼道」の石塔です。
石塔には、「左 山道」と書いてあります。
右側には「順禮道」となっているのですが、かなり読みにくい状態でした。
笠付きの石塔の正面の文字がわからず、石塔の右側にかすかに「巡禮道」と書いています。
道案内のほうは、札所32番までは0.5キロメートル、あと500メートルほどであることが書いてありました。峠の頂上からは近いです。
舗装道路に出ますが、札所の方向と反対側は、釜の沢となっていて、さらに3.5キロあるようです。
舗装道路に出たら、左に曲がりますが、右方面(釜の沢方面)を見ると遠くに花が咲いているのが見えました。
沢沿いの道を歩いていると、庚申塔が見えて、その奥の坂道の先には諏訪神社がありました。
二十三夜塔や供養塔もあります。山道に比べると、集落は花を楽しむことができ、写真でもわかるように桜やミツバツツジがきれいに咲いていました。
諏訪神社の本殿は、小鹿野町の指定文化財になっています。
外から見ると、普通の木造の神社ですが、中に本殿の建物があるようでした。保存のためでしょう。
札所32番への道も、ミツバツツジやいろんな花が咲いているを見ることができました。
三十二番目と書いている石塔とともに、札所三十二番法性寺の山門が見えてきました。到着です。ちょうどミツバツツジの満開の時期でした。
般若のお面が架かっていて、般若という地名にふさわしい山門です。
入口から境内では花が咲いているのが見えました。
本堂への道もミツバツツジが咲いています。
参道を上ってから山門を見た写真です。ミツバツツジの濃いピンク色、桜のうすいピンク色、そして椿の赤と、春の景色が楽しめます。
ここまで来る峠道ではまだ緑濃い時期ではありませんでしたが、札所では花を楽しむことができました。
追記として、巡礼道沿いではないのですが、札所三十二番から三十三番へ向かう途中でも立ち寄ることができる場所にある近隣の寺、鳳林寺について書きます。
小鹿野町の小鹿神社について書きましたが、同じく小鹿野町には江戸時代の『秩父順礼独案内記』に鳳林寺の記載があります。
「信濃石」という地区に、鳳林寺があって、追分のところで右に入ると小判沢に行くということが書いてありました。江戸時代の頃から鳳林寺は巡礼の人たちに知られていたのです。
なお、『秩父順礼独案内記』では、そこから山のほうにのぼる、とあって、大日峠以外にも鳳林寺方面から峠道を通る別ルートがあったようです。
鳳林寺は、秩父七福神の毘沙門天を祀るお寺になります。
説明によると「創立は天文12年(1543年)」とのことです。末寺十ヶ寺があったという大きな寺だったようです。
鳳林寺近くには八剱神社があって、そこには「信濃石」が置かれていました。
八剱神社の鳥居近くには、高札場跡もあって、鳳林寺付近は古くからここの地区の中心地だったと思われます。
札所三十二番から三十三番までの巡礼道にあるわけではないのですが、江戸時代のガイドブック『秩父順礼独案内記』にも書かれていた鳳林寺について追記しました。