秩父札所の巡礼道を徒歩で道しるべ石や石仏とともに江戸巡礼古道

秩父三十四観音霊場を江戸時代に流行した時のように歩きで周り道の巡礼石を紹介

このサイトは秩父札所と札所の間にある巡礼道に関することを書いています。

巡礼道の石碑などについてだけですので、札所、すなわち寺院については別サイトを参照ください。

札所についてはこちら>>秩父三十四観音霊場、秩父札所の記事一覧

札所三十一番から三十二番へ(小鹿野町の十輪寺や不動堂も)

前回の三十番から三十一番は、札所間の距離が最長のうえ、谷あり、峠ありの変化に富んだ巡礼道でした。

 

次の三十二番までの道のりも、かなりの長さになります。

 

まずは、来た時の道をバス停近くまで戻ることになります。引き返すことになるので、見忘れた場所など再確認できます。

 

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再度、地蔵寺や茶屋の前を通って戻っていきます。

 

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 行きの時よりも観音山トンネルの脇を通る巡礼道(帰りは右側に)はわかりやすくなっていました。

 

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文字が見えなかったので、これが15丁目石なのか、よくわからないままでしたが、このような石がありました。

 

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整備されたトンネル内ではなく、昔のように巡礼道を歩きます。行きの時も紹介しましたが、これが観音山トンネルの脇の古道です。

 

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岩殿橋近くにある、たらちね観音堂は昭和になってからの開山とのことなので、江戸時代には無かったわけです。

 

今とは違った光景が見えていたのでしょう。

 

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来たときと同じく岩殿橋を渡りますが、来る時に渡った宮平橋までは行きません。栗尾のバス停のほうへと向かいます。

 

三十一番入口の石碑の前を通ってそのまま、まっすぐ歩きます。

 

途中、牧場があったり、神変嶽という場所があったりと江戸時代とは違った景色を見ながら歩いていきます。 

 

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柏木橋の手前から脇道に入り、栗尾のバス停まで行く途中、「巡礼道」の札が架かっているところに道しるべの石柱がありました。

 

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「左 上飯田三山」「河原沢道」の文字が見えました。

 

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こちらの面には「右 三十一番岩殿沢」「倉尾道」です。左側には「東 小鹿野町」となっていました。

 

すぐ隣が車も通る道ですが、こちらの細道が旧道のようでした。以前は栗尾のバス停近く道の左側に「観音院入口」の石標があったそうですが、その石標は見当たりませんでした。

 

今あるのは、新しい寺標のようで国道そばの看板の裏側に、大きく高さがある石柱で「鷲窟山観音院入口」と書いてあります。

 

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バス停近くには、十一面観音堂がありました。

 

道路に面しているとはいえ、個人が建てたようなこじんまりとしたお堂です。

 

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そのお堂のそばにはいくつかの石造物、馬頭観音、石塔、石灯籠がありました。

 

ここからは国道299号に沿って歩きます。途中、ガイドブックや歴史の道の報告書にも書いてない石碑もありました。

 

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JAちちぶアグリホール小鹿野の先、橋の手前には石仏群がありました。庚申塔やお地蔵様のような石仏で、「勘定木橋石仏群」と呼ばれているようです。

 

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勘定木橋は、新しくなったようで、「埼玉の砂防発祥地」の碑がありました。

 

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さらに歩くと、国道の左側に光源院がありました。

 

小鹿野町指定文化財である「武田の高札」があるお寺です。武田軍の掟書きで乱暴狼藉を禁じるものでした(当時は高源院と書かれていた)。

 

武田家重臣の山県三郎兵衛の名が記されていて、武田家の朱印が押されているそうです。光源院に少し立ち寄ってみました。

 

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光源院は、江戸時代のガイドブックである「秩父順礼独案内記」にも「松坂の光源院」と載っていました。

 

武田氏重臣である逸見氏が開祖と言われています。山門も立派で歴史が長いお寺の風格がありました。

 

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越屋根みたいな屋根がついた「光」の文字が書いてある白い蔵がありました。

 

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さらに国道を歩いていきます。

 

黒海土の交差点を越えて、和田集会所の近くに、「和田の石仏塚」があります。

 

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石仏4体と石塔が立ちます。如意輪観音や馬頭観音の石像が見えます。

 

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和田の石仏群のところから右の脇道に入って行きます。旧道のような様相です。

 

和田集会所のところには、小鹿野町指定の有形文化財である木造聖観音立像の説明書きがあったのですが、集会所の中に収められているのでしょうか。どこにあるのか場所はわかりませんでした。

 

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旧道を通って住宅街を抜けます。その途中にもガイドブックなどに載っていない石碑がいくつかありました。

 

旧道から県道に出ます。小鹿野町の祭りで使われる山車を収めているような蔵があるのがみえました。新原笠鉾です。

 

西武バスの小鹿野車庫前や小鹿野高校前を通って行きます。五叉路になっている原町交差点を過ぎ、小鹿野町のメイン通りのような場所を歩きます。

 

江戸時代からあった小鹿神社です。小鹿神社へは参道が通っています。

 

巡礼道から外れますが、小鹿神社に行ってみました。

 

小鹿神社の場所は本来は、ここではなく現在の社殿は移転して来たものです。私が読んでいる江戸時代のガイドブック『秩父順礼独案内記』には東の山の方に諏訪明神があると書いてます。諏訪明神が今の小鹿神社がある場所のことだと思うのです。

 

後で小鹿神社の元宮について書きます。昔あったのは、元宮の場所でしょう。

 

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小鹿神社の参道と思われる路地を歩きました。国道299号に向かって歩きます。

 

小鹿野町には今でも井戸が残されています。路地にあった八坂神社そばにも井戸がありました。八坂神社の起源は比較的新しいそうで、明治初期に疫病が流行って建てられたとのことでした。

 

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手前だけでなく庚申塚の奥にも井戸がありました。小鹿野町の井戸は今でも使われている井戸もあるそうです。

 

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八坂神社の前に、小鹿神社の場所は以前は、諏訪神社が祀られていたことから諏訪大門と呼ばれたことが書いてありました。

 

やはり江戸時代のガイドブックのとおり、東の山のほうにあったのは、諏訪明神、すなわち諏訪神社だったのです。

 

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国道299号のすぐ手前から見た小鹿神社の鳥居です。

 

小鹿神社は明治43年の洪水でこの地に移り、諏訪神社を合祀したそうなので、やはり江戸時代はここにあったのは諏訪明神だったのですね。諏訪神社自体は安永4年の建立とのことです。

 

小鹿神社を参拝したら、また、巡礼道に戻りました。

 

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原町の交差点近くに戻り、また巡礼道を歩きます。

 

小鹿野町の中心街は県道を挟んで、北裏通りと、南裏通りがありました。県道をしばらく歩くと、またもや寄り道です。今度は十輪寺です。

 

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山門には埼玉県指定文化財の仁王様(木造金剛力士像)があります。

 

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仁王様も文化財としては有名なのですが、そのほか、日本でひとつしかないと言われる石像塔のカルラ王(迦楼羅天石仏)が十輪寺にあります。

 

江戸時代末期のころのものと推定されているそうです。カルラ王は空想上の怪鳥で、笛の音で悪い龍を退治してくれるそうです。

 

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全体像が鶴の形をした松がありました。

 

十輪寺には、そのほか時の鐘、芭蕉句碑もありました。

 

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秩父十三仏巡りの薬師如来の納経所はここ十輪寺になっています。

 

札所三十番から三十一番に向かって歩いていた時にも書きましたが、途中にあった「四阿屋山法養寺の薬師堂」に立ち寄りましたが、そこの御朱印はこちらの十輪寺にていただくことになります。

 

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寄り道ついでにもう一つ。十輪寺から小鹿野町のメイン通りに戻り、道の右側(十輪寺のお向かい)から脇道に入ると、お不動様が安置されている不動堂もあります。

 

成田山から勧請されたというお不動様です。

 

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私が行った時は、ちょうど修復中だったようで、網がかけられていましたが、参拝できるようになっていて中に入ることはできました。

 

扁額には「不動尊」とだけ書かれていました。

 

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古い商店街のある県道を歩いていくと、通りの左側に八坂神社もありました。

 

小鹿野町役場のほうに向かってさらに歩くと、途中で二又に分かれる道がありますが、県道のほうを歩いていきます。

 

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すぐに南裏通りに入って、小鹿神社の元宮を目指します。

 

埼玉の歴史の道報告書によると、巡礼道は小鹿野町役場手前で大きく右に曲がると書かれていたので、旧小鹿神社である小鹿神社の元宮のほうに向かう道道が巡礼道とのことでした。

 

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移転したので、旧小鹿神社とも呼ばれる小鹿神社の元宮です。

 

本殿だけが元の場所に残っています。唐破風の向拝が着き、精巧な彫刻が見事です。

 

ここから駐車場を抜けて、小鹿野町役場の裏から県道に戻りました。

 
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小鹿神社の元宮から庁舎の南側を回り込んで また県道に出るとそこには、馬頭観音の像があるということで、石碑を見つけました。 馬頭観世音の像のそばにはお地蔵様もありました。

 

県道を挟んで斜め向かいには、小鹿野町の昔の名前、巨香郷の碑(巨香郷之碑)がありました。小鹿野町の歴史は古く、平安時代に編纂された「和名抄」に巨香郷という記載が見えるということです。

 

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県道を歩き、左手に小鹿野郵便局があり、その先を右に曲がって細道に入っていきます。

 

入るとすぐに畑のところに白山神社の鳥居があるのが見えます。角には、庚申塔があって、いつもの「巡礼道」の札がかかっていました。白山神社前を通り、道なりに歩いていきます。

 

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途中、お地蔵様の祠がありました。 

 

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さらに欅の大木もありました。中島の大ケヤキと呼ばれているそうです。

 

以前は、ここから赤平川へ降りる道まで石畳が敷かれていたそうです。

 

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道なりに歩いていくと途中で二又がありますが、赤平川へと降りる道を歩きます。

 

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この日は、峠を越えるには遅い時間だったので、赤平川のところまでとして別の日にこの先を行くことにしました。

 

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金圓橋の途中で引き返しました。冬の時期だったので、赤平川の周りは枯れ木ばかりが見えています。

 

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再度、赤平川から出発です。今回は春だったので、前回は葉っぱも落ちてしまっていた大ケヤキにも葉が生えはじめていました。

 

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前回と同じく二又の道を右側の下に下りていく道を歩きます。

 

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前回、写真を撮るのを忘れたのですが、赤平川へ降りる途中に、小屋のような建物があり、その中に地蔵菩薩座像があります。

 

台座に「道 本回国供養 三十一番」、そして台座左側に「右 三十二ばん道」と書かれているそうなのですが、ところどころ石が削り取られていて字が読める部分と読めない部分がありました。

 

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地蔵菩薩座像の建物を過ぎてすぐ右に曲がり、金圓橋を渡ります。前回と同じ風景も春になると違って見えます。

 

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金圓橋を渡たり、赤平川を越え、対岸へ行きさらに先へと歩きます。

 

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赤平川を越えて、小判沢に沿って歩きます。

 

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途中の集落の道沿い右側に、「こんせい宮」(金精宮)がありました。

 

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こんせい宮のお向かいの家は昔は宿屋だったのではと思うほどの昔の造りの大きな家でした。

 

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小判沢の集落を通り、小判沢の橋を越えます。手前には道標のようなものがありました。

 

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左手に矢印が見えてきて、大日峠への山道に入ります。

 

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いつもの「南無観世音菩薩」の旗があるので大日峠への山道に入る場所はわかります。

 

木の札に何か書いてあるようなのですが、その上に新しく書かれたものが貼ってありました。「至 札所三十二番」と「熊、出没注意」です。

 

その下には「札所三十二番」と木札に縦に書いてありました。

 

春ですが、まだ寒い日もあるのにこの地区に熊は出ていたようで、熊による引っかき傷が木に残っていたと聞きました。

 

この日は、ハンターの猟銃の音が遠くで聞こえていました。音で脅して人里に出ないようにしているのでしょうか。

 

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分かれ道やわかりにくい場所には「南無観世音菩薩」の旗が立っていますので、それを目印に歩きます。

 

木橋を渡って先に進みます。

 

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山道は峠までは1キロほどの道だそうですが、後になって思うと、けっこう長く歩いた感じがしました。

 

沢を渡る先には南無観世音菩薩の旗です。

 

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これらの沢はすべて小判沢なのでしょうか。

 

とにかく南無観世音菩薩の旗を目印に沢を渡り、歩いていきます。

 

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沢の水は透き通ってきれいな水が流れていました。

 

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途中お墓のような石碑が集まっている場所があり、そこには「辯才天(弁才天)」の石碑がありました。

 

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沢の手前にはピンクのテープが、渡る先には南無観世音菩薩の旗です。これらを目印にします。

 

山道には春の草花が生えていて、寒い日でしたが春の訪れを感じることができました。

 

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ここからは沢越えよりも山のぼりです。

 

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峠に行く前は迷わないか山道を心配していましたが、数多くの「南無観世音菩薩」の旗があるので道はわかりやすかったです。

 

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歩き巡礼の人はいるのかと思っていましたが、道ができているのはわかりました。

 

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途中、道が崩れているような部分もありました。

 

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沢沿いの道を歩いて行きます。ここでは道案内の立札が倒れてしまっていました。

 

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春とはいえ、まだそれほど草木が生い茂る時期ではなかったようで、峠道に入ると花を楽しむことは少なかったです。

 

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丸太橋のところには、いつもの「巡礼道」の札です。

 

山道を迷わないようにと、南無観世音菩薩の旗や巡礼道の札を多めに掲げているようでした。ありがたいことです。

 

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大日峠頂上約10分の札がありました。

 

峠道に入ってから1時間ほどの道のりなのだそうですが、頂上までは、けっこう長く感じます。

 

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小判沢地区は、やってきた方向ですので、札所32番方面へと進みます。まだまだ上ります。

 

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上り坂の終わりが見えてきました。

 

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大日峠の頂上に到着です。

 

案内の方向板が立っているお向かいに新旧の石造りの大日如来座像です。

 

大日如来座像の裏にはまだ上へと登れそうな場所もありましたが、さらに高いところに上ることなく、このまま札所32番へと下ります。

 

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上に屋根がついている方が新しい大日如来座像です。

 

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頂上には、他に大正八年の道標が建っています。

 

「従是東南秩父郡長若村」と書いてあります。他の面には、矢印とともに「小鹿野道」「札所三十ニ番柿ノ木久保道」と書いてあります。

 

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峠は特に見晴らしのよい場所でもないので、札所32番へと下っていくことにしました。

 

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最初は杉木立の暗い道でしたが、じきに明るい道になりました。

 

下りは距離が短く感じました。行きは峠まで1時間程度というのですが、私としては長く感じました。

 

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途中の道の左側には六十六部供養塔がありました。

 

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すぐに人家が見えてきました。早めだと思うのですが、シャガの花が咲いていました。

 

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沢沿いの道です。峠道も終わりとなります。

 

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矢印が多くある案内板のところに来ました。

 

逆打ちですと、ここから峠道に入ります。「柿の久保の地蔵尊」と「順礼道」の石塔です。

 

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石塔には、「左 山道」と書いてあります。

 

右側には「順禮道」となっているのですが、かなり読みにくい状態でした。

 

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笠付きの石塔の正面の文字がわからず、石塔の右側にかすかに「巡禮道」と書いています。

 

道案内のほうは、札所32番までは0.5キロメートル、あと500メートルほどであることが書いてありました。峠の頂上からは近いです。

 

舗装道路に出ますが、札所の方向と反対側は、釜の沢となっていて、さらに3.5キロあるようです。

 

 

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舗装道路に出たら、左に曲がりますが、右方面(釜の沢方面)を見ると遠くに花が咲いているのが見えました。

 

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沢沿いの道を歩いていると、庚申塔が見えて、その奥の坂道の先には諏訪神社がありました。

 

二十三夜塔や供養塔もあります。山道に比べると、集落は花を楽しむことができ、写真でもわかるように桜やミツバツツジがきれいに咲いていました。

 

 

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諏訪神社の本殿は、小鹿野町の指定文化財になっています。

 

外から見ると、普通の木造の神社ですが、中に本殿の建物があるようでした。保存のためでしょう。

 

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札所32番への道も、ミツバツツジやいろんな花が咲いているを見ることができました。

 

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三十二番目と書いている石塔とともに、札所三十二番法性寺の山門が見えてきました。到着です。ちょうどミツバツツジの満開の時期でした。

 

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般若のお面が架かっていて、般若という地名にふさわしい山門です。

 

入口から境内では花が咲いているのが見えました。

 

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本堂への道もミツバツツジが咲いています。

 

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参道を上ってから山門を見た写真です。ミツバツツジの濃いピンク色、桜のうすいピンク色、そして椿の赤と、春の景色が楽しめます。

 

ここまで来る峠道ではまだ緑濃い時期ではありませんでしたが、札所では花を楽しむことができました。

 

 

追記として、巡礼道沿いではないのですが、札所三十二番から三十三番へ向かう途中でも立ち寄ることができる場所にある近隣の寺、鳳林寺について書きます。

 

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小鹿野町の小鹿神社について書きましたが、同じく小鹿野町には江戸時代の『秩父順礼独案内記』に鳳林寺の記載があります。

 

「信濃石」という地区に、鳳林寺があって、追分のところで右に入ると小判沢に行くということが書いてありました。江戸時代の頃から鳳林寺は巡礼の人たちに知られていたのです。

 

 

なお、『秩父順礼独案内記』では、そこから山のほうにのぼる、とあって、大日峠以外にも鳳林寺方面から峠道を通る別ルートがあったようです。

 

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鳳林寺は、秩父七福神の毘沙門天を祀るお寺になります。

 

説明によると「創立は天文12年(1543年)」とのことです。末寺十ヶ寺があったという大きな寺だったようです。

 

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鳳林寺近くには八剱神社があって、そこには「信濃石」が置かれていました。

 

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八剱神社の鳥居近くには、高札場跡もあって、鳳林寺付近は古くからここの地区の中心地だったと思われます。

 

札所三十二番から三十三番までの巡礼道にあるわけではないのですが、江戸時代のガイドブック『秩父順礼独案内記』にも書かれていた鳳林寺について追記しました。

 

 

 

 

札所三十番から三十一番へ

札所三十番までの道のりも長かったですが、札所三十番から三十一番までの距離は、さらに長くて、その倍はあろうかと思うくらいです。

 

事実、三十番から三十一番の間が札所間の最長距離となります。

 

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札所三十番の法雲寺では、観音様のお参りを済ませたら、観音堂に向かって左側にある寺宝のコーナーを見ておくことをおすすめします。

 

中でもおすすめなのが、古い納め札です。

 

「西国、坂東、秩父百ヶ所札所」の文字が入っていることで、三十三の三倍の九九ヶ所の札所ではないこと、ぴったり百にしていたことがわかります。

 

室町時代には、秩父札所は三十三観音ではなく、三十四観音霊場になっていたことがわかる、という納め札なのです。西国、坂東ではなく、秩父の札所を三十四にしたわけです。

 

その頃までは秩父も札所は三十三ヶ所だったのでしょう。

 

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札所三十一番へは、もと来た道を途中まで戻ります。白久駅まで行かずに、途中で道を左に曲がります。

 

行きに双体道祖神の祠の先の広場のような場所から道路へ出ましたが、道を隔てた反対側の近くに山沿いに巡礼古道が残っているのです。

 

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春先までなら入口がわかりやすいのですが、夏が近づくと上の写真のように雑草が生えてわかりにくくなるかもしれません。

 

「江戸巡礼古道」の立札があるので、それを見失わないようにします。江戸巡礼古道の立札のそばに、「右折」の看板があるので、それを目印にするといいでしょう。

 

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こちらの写真は、まだ寒かった時のものです。そのため雑草で見えにくい、ということはなかったです。

 

畑と山を分ける山道のような山際の道を歩きます。途中、沢のような場所もあって木で作られた即席の橋のような場所を渡ります。

 

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山沿いの道が終わるところに、道の左側に湧き水が出ている古い井戸と、祠のようなものがありました。

 

ここの湧き水で巡礼さんたちは、喉をうるおしたのか。

 

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山際の道から出ると右手から伸びている道が左にあるので、その道をまっすぐ歩きます。

 

畑が点在する住宅地の道を歩いていきます。

 

右に大きくカーブする角の畑のところに建っていた柱に、「県指定文化財 原の天狗まつり」と書かれていました。

 

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道を右にカーブして道なりに歩くと、秩父甲州往還に出ます。 そのすぐ手前、道の左に庚申塔と供養塔がありました。

 

庚申塔に向かって右側には「右 三十番」と書いてありました。 供養塔は、二十三夜の供養塔だそうです。

 

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 秩父甲州街道へ出たら、左に歩いていきます。道は右にカーブして、途中二又となる道がありますが、右へと歩いていきます。

 

双見沢というところで橋を渡ります。途中、円通寺というお寺の門標の前を通ります。

 

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左にゆるくカーブした道を歩いていくと、正面には二又になっている道が見えてきます。

 

道の左側に「地蔵尊参道入口」と書いてある道標がありました。中野地蔵尊への参道入口となる道なのだそうです。

 

この二又の道は右へと歩いていきます。

 

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 少し歩くと右手に秩父鉄道の線路が見えてくるので、線路の下をくぐって向こう側に行きます。

 

秩父鉄道の下をくぐると、すぐに二又道になりますので、そこを左の道を歩きます。

 

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道なりにすすむと、また二又があります。すると「歴史の道」の白い柱が見えてきました。

 

今度は秩父甲州往還道の分岐点です。柱に「右 往還道 左 大日向道」と書いてありました。その柱とともに、江戸巡礼古道の札です。

 

隣には、「東国高野 大日向山入口」と書いた石の道標です。

 

左の道は、大日向山大陽寺へ向かう道となります。右の道が巡礼古道です。

 

江戸時代、秩父の巡礼では、秩父札所のみならず、大陽寺や三峯神社に参拝する人が多かったようです。せっかく江戸から来たのだからとこれらの寺院や神社にお参りしたのでしょう。

 

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六所橋を渡り、住宅地の中を歩いてきます。

 

住宅へ入る道もありますが、道なり進みます。

 

六所神社もこの近くにあって、六所神社には六体の神様が祀られているそうです。この橋は江戸時代は土橋だったそうです。

 

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「民宿旅館さとじ」を過ぎて、正面に鉄工所がある変形の十字路を右に曲がります。

 

その十字路の右角に、道標です。文字が薄くなっていますが、正面には「渡船場ヲ経テ縣道ニ至ル 札所三十番秩父方面ニ至ル」と書かれているのだそうです。

 

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右の面には、「三峯山道ニ至ル」となっています。

 

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右に曲がってからは、荒川へと向かいます。

 

ゆるく左にカーブしている道ですが、私が行った時は、この先は通行止になっていました。以前は下りて行けたそうです。

 

道の先に、栃の木坂と呼ばれる坂があって、つづら折りのようになっているとのことでした。本来なら、坂を下りて河原に出て先程の道標にも書かれていたように「渡船場」へ出ます。

 

現在は、渡し船もなく、白川橋が利用されています。

 

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荒川の河原までは、下りることができなくなっていたので、とりあえず橋を渡って対岸に行き、そこからスタートすることにしました。

 

ここの道は、単に「巡礼道」と書かれていて「江戸巡礼古道」とは書かれていませんでした。

 

このことからもわかるように、江戸時代は荒川を渡って対岸に行っていたのです。現在の巡礼道であって、江戸時代の巡礼道ではないと。 

 

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三峰口駅の前を通り、白川橋を渡って対岸に行くことにします。

 

札所三十番へ向かう時に白久の串人形について説明書きの看板がありましたが、白川橋に白久の人形芝居としてイラストが書かれていたので、実際の人形芝居のイメージがつかめました。

 

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対岸に向かう途中で、贄川宿の入口を通りました。

 

ここは、「かかしの里」として知られていて住宅地の中ですが、かかしがたくさんありました。

 

家のそばに置いているかかしなので、ちょっとみると、本当に人間がいるような錯覚に陥ります。贄川宿についてはまた後ほど書きます。

 

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荒川を渡った対岸を探しに行きます。「栃の木坂の渡し」で荒川を越えた先を探します。

 

まずは、荒川の河原から坂を上がると見えるのが八幡神社、ということなので、八幡神社へ向かいます。

 

八幡神社へ下っていく道の入口には、八幡神社が開いている時間など、「八幡神社参拝入口」と書いた案内が下に落ちていますので、それを目印にします。

 

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巡礼道は荒川から坂道を上がって行ったわけですので、八幡神社も坂道を下っていった途中にあります。この写真にはありませんが、野生の猿に会いました。集団でいました。

 

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八幡神社の下に馬頭尊の石碑があるということで、馬頭尊の石碑を見つけました。神社らしき建物も見えます。

 

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八幡神社には、かなり急な階段を上らないといけないことがわかりました。道に落ちていた案内の紙にも書いてありましたが、急な坂道と急な石段です。

 

八幡神社は後で参拝するとして、まずは荒川の対岸を探します。

 

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八幡神社から下っていくとすぐに荒川が見えてきました。 荒川の対岸は、先程とは違って通行止めにはなっていませんでした。向こう側のみ通行止めのようです。

 

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おそらくこのどこかに「栃の木坂の渡し」があったのでしょう。

 

実際に荒川を渡ってみた人もいるようですが、替えの靴が無かったので、ここでは渡ることなく見るだけにしておきました。

 

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ということで、ここから荒川を渡った前提で歩いていくことにしました。

 

まずは、八幡神社に行って参拝しました。

 

手すりはありますが、かなり急な階段ですので、慎重に上り下りをする必要があります。書き置きの御朱印を電子マネー払いで払っていただきました。

 

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八幡神社の下には、馬頭尊の石碑と、石仏が4体ありました。

 

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先程も書きましたが、八幡神社の付近では野生の猿に何度も会いました。まるで先導するかのように先を歩いていて、突然のこと(猿にとっても私にとっても)ですし、大きな猿は怖かったです。

 

ここは上り坂になっていて、八幡坂と呼ばれています。

 

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八幡坂を上ったところです。

 

札所三十番から三十一番へは、二通りのコースがあります。

 

ひとつは、ここから右に行って贄川宿には立ち寄ることなく、贄川に沿っていくコース(本コース)と、ここから左に行って贄川宿を通るコース(町分コース)です。

 

贄川宿は三峯神社詣でをする人が利用していたそうです。

 

私が参考にした江戸時代のガイドブックである『秩父順礼独案内記』にも三峯神社や大陽寺のことが書かれていて当時の人たちは三峯神社や大陽寺に参拝してから札所へと行ったことがわかります。せっかくここまで来たのだから、という思いでしょう。

 

巡礼だけ、という人は、今でいうところの「本コース」だったのでしょう。

 

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まずは本コースをご紹介します。

 

本コースも町分コースも結局は大指にある諏訪神社近くの南側で合流することになります。

 

ただし、現在、本コースの一部が崖が崩落して通行不能になっているようで通ることができませんでした。そのため本コースの紹介は、途中までとなります。

 

本コースはまずは阿弥陀寺を目指します。先ほども説明しましたが、贄川の交差点を右に曲がって国道140号、秩父往還を歩きます。

 

歩道と車道が分かれている橋を渡ります。この橋でも野生の猿に出会いました。

 

この写真に載っている道標のところで曲がってしまう人が多いようですが、巡礼の道はこの先の国道の新道と旧道が分かれる分岐点の少し手前を左に入ります。

 

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ここが旧道と新道の分岐点です。

 

この先に「阿弥陀寺」と書いた看板のようなものがあるので、そこを左に入ります。

 

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まずは阿弥陀寺前の参道となる場所の石段をいくつか上ります。

 

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石段を上り、平らな場所の正面に石仏がありました。

 

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さらに先に進み、階段を上り阿弥陀寺の山門前へと歩いていきます。

 

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こちらが阿弥陀寺の山門です。

 

本来は山門から阿弥陀寺に入らずに寺の敷地を垣根のところを歩いていきますが、阿弥陀寺に立ち寄ってみました。

 

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墓地の手前にいくつか石仏ありました。

 

阿弥陀寺には、台座に「ひだり三十一ばん道」と書かれた石の観音菩薩座像があるとのことだったのですが、この石仏も座像ではありますが、台座に「三十一ばん道」のような文字が見当たりませんでした。

 

 

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阿弥陀寺の境内から巡礼道といわれる垣根の脇の道に入ってみました。

 

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本来の巡礼道は山門からこの垣根の脇の土の道を入って墓地を回り込むようにして行きます。 

 

 

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その後は、坂道を上った先の左手に送電線の鉄塔があるのが見えます。その手前の道を入っていきます。畑の脇道という感じの道でした。

 

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送電線の鉄塔脇の道を抜けると舗装された道に出ます。そこを左に入っていきます。

 

上平集落という民家が立っているところを抜けて、林の方へと歩いていきます。

 

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木立の中を歩いてきます。途中、人家もあったのですが、ほぼ山林ばかりの道を歩き、木立の中を通り抜けていきます。

 

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ガニ沢へ下る林道をしめす標識があるので、そこを左に入っていきます。

 

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ここからガニ沢へ向かおうとすると、手前のすぐのところに「この先、大変危険な箇所があり、崖の上を歩くために滑落して死亡事故につながる恐れもある」、と書かれた注意書きがありました。

 

特に台風後など崖が崩れやすくなっている場合は通行不能となるそうです。

 

崖手前のH鋼の橋があるガニ沢付近くらいまでは行けるみたいでしたが、この日は「町分コース」も歩くつもりでしたので、とりあえず「本コース」は、ここまでにして、ここで引き返すことにしました。

 

 

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次に、町分コースです。

 

先ほども書きましたが、贄川の交差点を横断し、左に曲がります。

 

左に曲がってすぐのところで、右に入る旧道のようなくねくねした坂道があるのでそちらに入っていくと、六十六部廻国供養塔や二十二夜塔など四基の大きめの石造物と、小さな石標と石仏がありました。

 

大きく左に曲がりその後右にカーブした坂道を上ると三叉の交差点になっていてそこが贄川宿となっていました。

 

ここが「町分コース」の名前にもなっている「町分」といわれる場所だそうです。

 

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三叉の道を右に入るとお地蔵様の祠が見えます。

 

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お地蔵様の前にあるニ基の庚申塔には「みぎ三十」とか書かれ、もう一つの手前にある庚申塔には「山道」(向かって右側面)と書かれています。

 

道しるべを兼ねた庚申塔です。

 

お地蔵に向かって左側の道を入って行きました。

 

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ここで少し贄川宿についてです。

 

なお、贄川宿の中は昔の宿場の感じが残っています。ここは「油屋」の前です。

 

かかしの里とも呼ばれ、至るところにかかしが置いてあります。

 

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ここは国道140号から入った秩父往還の贄川宿の入口です。このように贄川宿の説明書きなどが立っています。

 

どこにどのようなお店や宿があったのか地図もありました。

 

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さて、巡礼古道に戻ります。

 

お地蔵の左側の道を道なりに大きく右にカーブした道を歩いていきます。

 

途中には以前は宿屋だったのでは思うほどの大きな家もありました。

 

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諏訪神社の脇から林の中へと入っていきます。

 

秩父市役所の工事中の看板のすぐそばに江戸巡礼古道の道案内の札があります。

 

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山道のように思っていましたが、整備された道でした。

 

荒川西小学校の西側を通る道です。

 

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江戸巡礼古道の標識に従って歩いていきます。

 

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林の間を抜けていきます。この近くには、贄川城跡があったようです。

 

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舗装された道に出てから右に曲がって、県道を歩きます。

 

県道を歩いている途中で、右側にこの「巡礼道」の矢印が見えたら、林の方へと入っていきます。標識を見失わないようにしましょう。どこから入るのかわからなくなります。

 

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ピンクのリポンや「巡礼道」の札が下がっているので林へ入る道はすぐにわかりました。

 

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尾根道のようなところを歩いていきます。 

 

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ロープにつかまって下りるようなところもありました。

 

そこにも道を間違っていないか確認できるように「巡礼道」の札がついていました。 

 

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 沢へと慎重に下りていきます。

 

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なんとか下まで来ると、沢の水の透明さに感動しました。 晴れた日ならもっときれいに写真に撮れたと思います。

 

 

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この付近は、いくつか沢を越えるのですが、これは水の量によります。

 

雨が降って水かさが増している時は川のようになっているはずです。

 

私が行った時は、比較的雨が少なく乾燥していた時期だったので、沢の水も少なくなっていたようでした。

 

渡るときは対岸に「巡礼道」の札を確認しながら渡ります。県道から木立の中へと入ってからは、この「巡礼道」の札を頼りに歩いていきました。 

 

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沢を渡るたびに、「巡礼道」の札やピンクのリポンを確認します。

 

わかりやすく整備されているので、道を間違えることはないと思われますが、予め地図で確認しておきましょう。

 

 

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巡礼道の札は、木の下のほうに架かっているときもあります。 とにかく、この「巡礼道」の札が頼りでした。

 

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手前の沢には水がありましたが、その先は乾いて通りやすかったです。

 

まるで川岸のサイクリングロードのように整備されている場所もありました。

 

それでも川のような場所はあるので、ここが贄川なのだと思います。この写真を撮った時は水が少なくなっている時期(春先)でしたが、梅雨や台風時期だと状況がまったく違うでしょう。まったく別の光景になるかと思います。

 

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この沢を渡る山道の続くところで、阿弥陀寺を経てガニ沢を通ってきた「本コース」との合流地点があります。案内の看板が合流地点であることがわかりやすいらしいのですが、写真に撮りそこねてしまいました。

 

その後は、Uターンするように道が続き、栗林と言われる場所を通って坂を上ります。ここにも「巡礼道」の札が下がっています。

 

 

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 坂を上ると目の前が開け、神社が見えてきます。正面に見えるのが、大指の諏訪神社です。

 

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思ったよりも簡素な造りの諏訪神社でした。古い住宅のような感じがします。

 

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巡礼道から外れますが、諏訪神社に立ち寄ってみました。神社ですが、石仏や石碑などがありました。 

 

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いつもの「巡礼道」の札ではなく、黄色い札に「大指ー31番」と書かれて札所31番への道が示されていました。

 

埼玉県の歴史の道報告書では、谷筋の道と書かれていて、川の中を歩くような場所もあったみたいなのですが、実際に歩いてみたら、谷筋の道、という場所がわからず、この札が指し示す先へとまっすぐ歩きました。

 

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まっすぐ行くと、大指の集落なのでしょう。人家がありました。

 

突き当りのところで私は間違えて、右へ歩きかけていたのですが、この江戸巡礼古道の札を見つけ、左に曲がって行きました。 31番寺の方向です。

 

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 大指の集落から県道へと出る道を歩いて行きます。ここは右側が切り立った崖のようになっていました。

 

左にカーブした道を歩き、途中、橋のようになっている場所を抜けて今度は右へカーブしてと曲がりくねるのですが、道なりに進んで行きます。県道まで出たら、開けて明るい道になるなと思いました。

 

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県道に出る手前の民家前を通りました。この家の庭先にあると言われる「三体の地蔵尊(寺坂の三体地蔵)」が見つからなかったのですが、巳待塔は見つかりました。

 

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県道に入ってから600メートルほど歩くと左に一里塚があって、そこに榎が植えられている、とのことでしたが、一里塚自体がわかりませんでした。

 

一里塚の少し先に観光案内の看板があるとのことなのです。おそらく上野沢のバス停の手前ではないかと思います。

  

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犬のブリーダー場のようなところを抜けてすぐの左側にお地蔵が立っている場所がありました。ここのは、比較的最近作られたお地蔵様のようです。

 

 

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 集落のような人家が何軒かある場所を通っていきます。半鐘みたいな鐘です。

 

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天王様と呼ばれている八坂宮の前を通ります。

 

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 八坂宮のところには、巳待塔がありました。

 

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八坂宮の手前は以前は巡礼宿だったと思われるような立派な造りの家がいくつかありました。

 

 

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 県道を400メートルほど歩くと、県道の旧道と新道とに分かれる場所に出ます。旧道のほうを通っていきます。

 

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かなりの急な坂道で、馬坂と呼ばれているそうです。

 

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その坂道の途中には、二十三夜塔とお地蔵の祠がありました。 

 

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馬坂を上り切って右に曲がると正面に神社のような建物が見えました。

 

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その神社のような祠の手前には、双体道祖神らしき石造物がありました。このあたりには、かつては茶屋があったそうです。 

 

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左に曲がる角地のそばに、いくつか小さな祠が並んでいました。

 

こちらが「間庭の甘酒まつり」で知られる天王様です。

 

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間庭の甘酒祭りは、三百数十年前から行われている伝統の祭りだそうです。

 

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その10メートルほど先の左側には、甲冑塚です。この説明書きの裏手に塚があるようでした。

 

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甲冑塚の数メートル先、右手に小森川へ降りる道があります。

 

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川まで降りる道へ入るところも非常にわかりにくいのですが、よく見ると、このように「巡礼道」の札が架かっています。

 

舗装された道を歩いている時からずっと右側を注意してみると、「巡礼道」の札がわかると思います。

 

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しかしその先の巡礼道がわかりませんでした。 川へ降りる途中までは行けたのですが、道がわからなくなってしまいました。本来はここから川へ降りるのですが。

 

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下を流れるのが小森川です。他の人のブログを読むと、地元の人に案内してもらった人は下まで行ける道がわかったそうなのですが、私はとうとうわからないまま諦めて元の道へと戻りました。 

 

 

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仕方なく対岸へと行きます。遠回りをして小森川の対岸へと歩きました。

 

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これが先程、道がわからなくなった場所から見えた小森川です。

 

わざわざ川を渡らなくても、私のように少しばかり遠回りをすれば巡礼道には行けるようになっていました。

 

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小森川の対岸から向こう岸の先程降りるはずだった場所を見ました。

 

私は見失ってしまいましたが、対岸に道はあるように見えました。しかし向こう側では川へ降りる道が不明でした。 どこか途中が切れてしまっているのかもしれません。

 

 

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こちらが小森川の対岸から見た光景です。

 

小森川は、私が行った時は特に水かさが少ない時期だったためか、浅い川にみえ、裸足になれば渡れそうにみえました。

 


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最初、民家の庭先に出てしまったのですが、対岸には道路へ上る道、すなわち岸から上がった時に歩く道はありました。

 

向こう側の対岸もそうなのですが、金網と金網の間が開いています。

 

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とりあえず、小森川を渡ったことにして、続きを歩くことにしました。

 

川を渡ったことにしたので、岸から上がり、その道をまっすぐ歩いていきます。

 

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畑の中の道を歩くと四つ角に出ます。

 

その右手に霊符尊碑がありました。その隣には道標です。諏訪神社や甲冑塚、道明塚と書いてありました。 

 

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四つ角をまっすぐ歩いていきますと、桑畑らしき場所に祠がありました。

 

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さらに道なりに進むと、お地蔵を祀っているようなお堂と念仏講中の石仏がありました。

 

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さらに道なりに進んでいくと、間庭の甘酒祭りの天王様の手前、馬坂に入るところまで歩いていた県道に出ます。県道に出ると車の往来があります。

 

県道を北上していくと、小鹿野町の町営のバス停が見えてきます。

 

バス停の先は、「旧近藤銘醸」という酒造です。建物もそうですが、蔵も残っていました。

 

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薬王山實泉寺の寺標と四阿屋山へと入る登山口である桜本コース入口を見ながら、県道を歩きます。春先は桃の花がたくさん咲いている場所もありました。

 

さらに先にいきますと、道の駅や両神温泉薬師の湯がある広い場所(駐車場を含む)の前を通ります。

 

 

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「 薬師の湯」のお向かいには、まだ新しい石仏が建っていました。

 

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さらに先に進むと、左側に法養寺が見えてきます。秩父十三佛のひとつです。

 

法養寺の薬師堂は埼玉県の指定文化財になっています。

 

室町時代末期の建物です。山門前には「日本三体薬師尊」と書かれた石標が建っていました。

 

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山の薬師様と古くから信仰されてきたとのことで、札所三十番から三十一番の中間地点にあります。

 

贄川沢のあたりで山の中の道を歩いたので、法養寺が終盤のような感覚でしたが、ここでやっと半分まで来たのかと長い道のりのことを思いました(まだまだ先は長いのです)。

 

江戸時代の秩父札所に関する書物には、必ずこの法養寺薬師堂のことが書かれていたとのことです。

 

それだけここは巡礼さんが立ち寄るし、目印にしていた場所なのでしょう。薬師堂には秩父札所の巡礼さんたちが書き残した墨書きを見ることができます。

 

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法養寺の薬師堂のすぐ隣には両神神社がありました。

 

さらに県道を北上すると、駐在所や郵便局などがあり、両神庁舎前の交差点があります。交差点の左角に道しるべがあるそうなのですが、これは見つかりませんでした。

 

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両神庁舎の交差点に行く手前、駐在所と両神ふるさと会館の間の道があるので、そこから左に曲がり、そこから入るのが巡礼道です。

 

その道を歩くと、正面に小鹿野町両神庁舎、以前の両神村役場前に出ます。

 

両神庁舎から左に少し歩くと、正面に両神中学校のある道が見えます。その入口には、二十三夜待供養塔と、左側に「五合峠ヲ経テ三田川村ニ至ル、札所三十一番道」と書かれた道標があります。

 

供養塔には「ミぎ三十一はん」「左 薄須川」と書かれています。

 

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両神中学校まで歩いて、左に折れます。中学校の校庭に沿って右へと歩いていきますと、林の間の道に出てきます。

 

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山道のようなところですが、道は整備されています。

 

山の中の道という雰囲気のところを抜けていきます。ここは、慶長慶安の検地帳には「順礼海道」と記載されている道なのだそうです。なぜ「海」の文字を使って、街道ならぬ、海道なのか。

 

巡礼の文字も昔はなぜか「順礼」の漢字になっていました。地元の人は現在、ここを「巡礼街道」と呼ぶそうです。

 

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その「巡礼街道」と呼ばれる古道を歩いて行くと目の前の木々の間から橋が見えてきて、川があることに気がつきます。

 

春先のまだ寒さが残る頃だったので、木々が生い茂っていなかったために橋があることに気づくことができました。

 

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 薄川(すすきかわ)にかかる木橋です。

 

以前、他の人のブログで見た複数の写真で見たものはもっと古い橋でしたが、現在はできたばかりのような真新しい木橋でした。

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 薄川の水は澄んでいて透明でした。このように、板も新しく、できたばかりに見える橋です。

 

 

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川を渡って対岸からは、かなり急な坂道です。すぐ隣は川の岸辺の工事現場でした。

 

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坂を上りきったところは、坂戸の集落と呼ばれています。急な坂なので、何度も滑りそうになりました。

 

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坂を上ってからはまっすぐ歩いて、県道に出ます。県道のそばには、道標がありました。

 

もと来た道を指し示す部分は、「薄川を経て両神村役場」となっていました。県道に出たら、右に曲がって県道を歩きます。

 

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県道を少し歩くと、道の右手に石燈籠や石造物がいくつか見えてきました。

 

桜や桃の花が咲き始めた頃のなので、きれいな光景に巡り会えました。

 

 

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馬頭尊の石碑と、文政年間の秩父坂東西国四国供養塔です。

 

その隣は、竹内以志女墓となっています。竹内いしは、埼玉ゆかりの偉人として知られていて、緑綬褒章を与えられています。

 

明治の七大孝子の一人として教科書にも載っていたそうです。

 

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石造物のある場所から左に入っていき峠に向かう道になります。

 

春だったので、菜の花、花桃の花、桜の花と花が咲き乱れる場所(本当にラッキーな光景です)を通って坂を上っていきました。

 

坂道の入口付近に先ほどの竹内いしに関する説明書きの看板がありました。以前は坂道のところにお墓があったようです。 

 

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道なりに進んでいきます。ここが権五郎落峠と呼ばれている場所です。

 

花が咲いている時だったので、明るい感じがしますが、いつもは杉の木の木陰で暗い峠道のようでした。思ったよりも長い道でした。

 

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峠道を下りていき、飯田橋を越えて国道299号に出ます。

 

本来の巡礼道は飯田橋まで来る前のところで赤平川を渡って、対岸の土手を斜めに100メートルほど上って国道に出るとなっています。

 

しかし、赤平川へ降りる道が不明になっていました。

 

後で調べてみると、飯田八幡神社の元宮があった場所ではないかと思います。飯田橋を渡ると、正面に「31番観音院」と右への矢印が書かれた看板がありました。 

 

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飯田橋を渡り、国道299号を歩くとしばらくして、右手に小さな祠と石仏、巳待塔などいくつかの石碑が置かれている場所がありました。

 

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建物は、お寺というよりは古い神社かと思ったのですが、置いてある石仏や石碑を見ると廃寺なのかとも思いました。

 

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赤平川を渡って対岸に来た場合は、対岸の坂を上ってこの場所に着きます。

 

ここには、道しるべの石と細道を挟んだ隣には飯田十王堂があります。

 

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この道しるべの石は、三面になっていて、「左 三十番 三峯山」「右 三十一番」「右 三山 信州道」と書かれているそうなのです。

 

この写真では右側に見える面に「左」その下に「三十番 三峯山」と書かれ、「右 三十一番」と書かれている面も見えます。

 

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壁に挟まれて表側から見えない面には「右 三山 信州道」 と書かれているはずですが、石壁のすぐ近くで写真も撮りにくい上、文字の確認しにくいです。

 

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小道を挟んだ隣の飯田十王堂です。「十王堂」と書かれた額があるのですぐにわかります。

 

中には木彫りだと思うのですが、神様なのか王様なのかが並んでいました。

 

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先程の今はなくなっている巡礼道の一部ですが、初夏の頃に再訪した時、少し見てみました。

 

赤平川から上るほうの岸からなら、川のほうまで行けそうだったので、行って見てみることにしました。 

 

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やはり対岸からの道がわからなかったのですが、赤平川は見ることができました。

 

対岸から渡ったことにして、坂道を上り、現在の国道299号の道に出る、ということは雰囲気を掴むことはできました。

 

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赤平川自体は、それほど水深い川ではないようでしたので、江戸時代は渡し船ではなく、そのまま渡ったのだろうと思いました。

 

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この坂道を上ると、岸辺を上がることになり、その上がった正面に道しるべの石や飯田十王堂があります。

 

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ということで、現在残っている巡礼古道に戻ります。

 

飯田十王堂のところから右に行き、さらに国道299号に沿って歩いて行くと、飯田八幡神社がありました。

 

先程の権五郎峠からの下り坂で赤平川を渡るところにあったと書いたのは飯田八幡神社の「元宮」でしたが、現在は、ここに飯田八幡神社があるわけです。

 

1年の締めくくりとなる年末12月に行われる鉄砲まつりのことが書いた柱が建っていました。

 

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三川田小学校前のバス発着場所を通り過ぎ、左に三田川郵便局、右に大竜寺温泉のスタンドがあるところに左へと入る道があります。

 

そこには、千部供養塔があり、千部供養塔に向かって左側に「三十一番道」と書かれています。

 

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右側の面には「右 小かのみち」と書かれています。国道から左斜めに入る道で、岩殿沢へ向かう道として知られていたそうです。

 

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道なりに進み突き当りのT字路に出る手前に、馬頭尊の石碑が金網の向こうにありました。

 

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草むらの陰にあるので、見落としやすい場所にあります。

 

突き当りからは右に折れ、宮平橋へ向かいます。

 

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本来は、宮平橋のある場所よりも少し左側に寄った場所から岩殿沢を渡って向こう側に行ったそうです。

 

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宮平橋を渡って、左に曲がって少し歩くと、石碑が見えてきます。

 

ここからは三十一番、観音院の参道、とわかるように、「三十一番入口」の石碑が建っていました。江戸時代に岩殿沢を渡って上ってきた場合、石碑のあるここの場所に出るようになっていたそうです。

 

右の側面には「従是二十五丁」と書かれていて、丁目石とわかります。

 

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札所三十一番へ向かうあたりの集落は大きめの石壁がありました。

 

三十一番観音院の前にある仁王様も凝灰質砂岩という石造のものです。岩殿沢石は、古くから秩父で使われてきた石なのだそうです。石はふんだんにあるのでしょう。

 

 

 

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まずは花桃街道で知られる岩殿沢の橋に向かいました。赤い橋なのですぐにわかります。今回は、あじさいの時期の写真を出しています。別のブログで、寺院の紹介をしたときは、花桃の時期の写真を出しました。

 

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橋の手前には、石燈籠など石造物や祠がありました。 

 

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ここが石経塚と言われる場所なのだと思います。

 

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岩殿沢の橋を渡ると、いくつか石造物がありました。ここに庚申塔があるとのことだったのですが、見当たりません。周囲を探してみることにしました。 

 

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石造物の後ろに、さらに小さな橋があり、そこを渡ると庚申塔がありました。

 

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庚申塔と、その隣には大勢至菩薩の石碑がありました。

 

小さな石造りの祠もありました。

 

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岩殿沢の橋を渡ってすぐのところには、たらちね観音堂があります。

 

その手前に不動尊があるそうなのですが、不動尊は見当たらず、小さなお堂のような建物がありました。

 

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たらちね観音堂から歩いてすぐのところには、大日堂です。

 

お堂の中には、大日如来座像と双体道祖神が祀られています。

 

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大日堂の外には、石仏3体と石塔2柱がありました。これらは、安永、文化年間のものだそうです。

 

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大日堂の外、向かって右には他にもお地蔵様や小さなお堂などありました。

 

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花桃の時期もいいのですが、あじさいの頃も道添いに咲くあじさいが綺麗です。

 

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しばらく歩いて行くと、道の左側に、「七丁」と書いてある丁目石が草むらところに見えました。岩殿沢のところからは900メートルの場所とのこと。

 

 

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さらに歩くと、右側に「東西」と矢印が書いてある道しるべ石がありました。

 

西の字の下には、「札所三十一番」の文字が見えます。ほかには倉尾村馬上の文字が見えます。

 

東の字の下には「大字飯田」という文字が見えました。

 

小鹿野町は、倉尾村、三田川村、小鹿野町が一緒なってできた町だそうですので、石標には合併前の名前が残っていました。

 

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茶屋の手前も、あじさいがたくさん咲いていました。

 

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茶屋が2軒並んでいる場所に着きました。まずは、観音茶屋です。

 

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観音茶屋から少し歩くと、十二丁目石と馬頭観音像です。

 

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文化年間のもので、なかなか可愛らしい馬頭観音です。

 

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次の茶屋は、山田家です。

 

その先に地蔵寺が見えました。道の両側には数が数えられないほどの多数の水子地蔵です。 山の上のほうまで水子地蔵はありました。

 

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水子地蔵の前には、六地蔵尊もありました。 花桃の時期に来た時は桜も咲いていて、水子地蔵の一帯が桜の花が咲き乱れる場所になっていました。

 

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 地蔵寺の先には観音山トンネルが見えますが、その手前に道しるべ石です。

 

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向かって左には、秩父郡三田川村大字飯田字岩殿沢と書いてあります。

 

上部に矢印があって今までやってきた方向は、「栗尾ヲ経テ小鹿野町ニ至ル」と書いてありました。

 

そして、これから行く方向には「札所三十一番及牛首峠ヲ経テ倉尾村ニ至ル」と書いてありました。

 

 

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観音山トンネルの入口に向かって左側には、馬頭観世音の石碑があり、その石碑の向かって右の面には、「十四町目」(丁目ではなく)となっていて、この石碑は丁目石でもあるようでした。

 

その隣には、お地蔵様です。お地蔵様のほうが目に着くと思いますが、隣の四角い石碑が馬頭観音の石碑です。

 

本来は観音山トンネルではなく、この馬頭観世音の石碑の隣にある左の小道からぐるっと回って行くのが巡礼道です。

 

観音山トンネルの入口からだとわかりにくいのですが(この写真の時期、6月あじさいの時期、特に草が生い茂っていてわかりにくいです)、出口からだと道が通っているのがわかります。

 

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観音山トンネルを出たすぐのところに、十五丁目石があるそうなのですが、見当たりませんでした。石の柱があったのですが、文字が書いているように見えなかったのです。

 

その先の大竜寺温泉の源泉地がある手前の橋のところに、十八丁目石がありました。

 

この十八丁目石の付近は西国、坂東、秩父の百観音の札所名が書かれた札が掲げられていました。ここから見えるのは、坂東札所で、長谷寺、水澤寺、満願寺とあります。

 

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深い谷のような場所を抜けると、いつもの南無観世音菩薩の赤い旗が見え、右手に札所三十一番、観音院の仁王門が見えてきます。

 

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札所三十番から三十一番までの長い道のりでしたが、ようやく到着です。

 

さすがに札所間の距離が一番長い区間と言われるだけあって、やっと着きました。

 

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 仁王門に向かって左には、「三十一番入口」とあり、渋沢誠室書の石碑がありました。仁王様の供養塔も兼ねているようです。

 

そこには渋沢栄一の伯父と書いてありました。渋沢宗助のことです。

 

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仁王門の手前右側には、「三十一番」の石碑です。

 

石燈籠や供養塔らしきものもありました。仁王門の右側に、「右 順礼道」の道標があると埼玉県の歴史の道報告書に書いてあったのですが、それは見当たりませんでした。どこに行ったのでしょう。

 

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ここの仁王様は、一本石造りでは日本最大の仁王立像になるそうです。

 

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ここまで来るのも長い道のりでしたが、本堂までは、さらに296段の石段を上らなければなりません。

 

石段を上り始めるところには、「廿一丁」の丁目石がありました。

 

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長い石段だからなのか、天保14年に奉納の石段供養塔もありました。石段を作ったこともすごいことですが。

 

この供養塔は今の嵐山町に住む人が奉納したようです。

  

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南無観世音菩薩の赤い旗もそうですが、かなりの数の短歌が石碑として奉納されていました。

 

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 大きな岩のような下に廿二丁目石がありました。

 

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さらに上って、石仏の隣に廿三丁目石を見つけました。

 

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石段の脇には十二支霊場もありました。

 

千手観音、普賢菩薩、虚空蔵菩薩、大日如来、勢至菩薩、文殊菩薩、阿弥陀如来、不動明王の像が並んでいました。

 

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 廿四丁目石は、比較的新しいもののようでした。

 

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途中には、秩父歌舞伎の先祖である坂東三十郎建立の碑がありました。

 

この場所に建てたのですね。南無阿弥陀佛と書いてありました。

 

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石段の最後には、廿五丁目石がありました。こちらも比較的新しい石碑です。

 

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廿五丁目石で札所三十一番の観音院に到着となりますが、観音院には石仏が多いのでいくつかご紹介します。

 

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階段の上まで行くと、目の前には鐘撞き堂があり、すぐ後ろを振り返ると、観法法印即身仏墓がありました。

 

「當院十六世 権大僧都法印観法」と書いてあります。 

 

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観音院は石仏が多い札所です。

 

滝の上洞窟石仏群もあるのですが、そちらには崩落の危険があるということで、行けませんでした。

 

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岩屋の中に弘法大師像があるのが見えました。

 

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観音院の本堂前の左側には宝篋印塔もありました。

 

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観音院は、聖浄の滝が有名なのですが、今は水の量が減ってしまっています。

 

滝まで行く手前には埼玉県指定史跡になっている鷲窟磨崖仏があります。岩肌に小さく掘ってあるのがわかります。滝に気を取られてしまいますが、滝の手前、岩壁のほうを見るとわかります。

 

これらは室町時代に作られたものと推定されていますが、弘法大師が爪で掘ったという伝説があります。ここの岩肌も、新生代第三紀層の礫質砂岩となっています。

 

群像としての磨崖仏としては埼玉県では他に例がないという珍しいものです。 

 

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聖浄の滝の下には不動明王の像がありました。他にも石仏や石碑があります。

 

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納経所の前には、高桑闌更の句碑があります。

 

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納経所の前には畠山重忠の家臣である本多次郎親常が射った矢が跳ね返るところに聖観音像があったという由来の奉納額絵が掲げられています。

 

納経所のすぐ脇を通って東の奥の院に行けるようになっています(西奥の院のほうは現在通行止め)。

 

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この時も東の奥の院まで行ったのですが、長くなりましたので奥の院についてはここでは触れません。案内図をみていただけば、だいたいのところはわかるかと思います。

 

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なお、観音院の先はほぼ道が途絶え、駐車場になっています。この先は、舗装された道から山道になります。

 

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 この先は、牛首峠へつながる山道になります。ジオパーク秩父の説明でも礫岩層のことが書いてあります。

 

鬼滅の刃が流行っていた頃、この牛首峠へつながる山道の途中に炭治郎が二つに切った岩に似ている岩があるとして、ニュースにもなっていました。全国には、似たような二つに切った岩があるそうなのですが、そのひとつ、として知られるようになりました。

 

また、山登りが好きな人たちや古い城跡めぐりが好きな人達は、さらに先、牛首峠から日尾城跡を通って、観音山の山頂まで行くそうです。

 

 

 

 

札所二十九番から三十番へ

二十九番からの道は、次の札所までが離れていてかなりの距離を歩くことになります。

 

これ以降は写真も多めになります。なんせ長い距離ですから。

 

西武秩父駅や秩父駅周辺の札所は次の札所まで、サクサクと進んだのですが、今回以降は、まだかなというくらい長い話になります。

 

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 札所二十九番の長泉院の山門を出てから、左に歩いていきます。

 

1つ目の角を左に曲がります。まっすぐ歩いていくと、秩父市荒川上田野の共同調理場給食センターが見えます。学校給食センターのようなものだと思います。

 

その建物のすぐ手前に道しるべ石です。「右 廿九番」と書いてあります。

 

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巡礼道は実は2つルートがあったそうです。

これはその2つの道が合流する地点にあった道しるべ石だったそうです。

 

桑畑の中を通る道だったそうなのですが、見えるのは森のような木々が生い茂るところと民家の庭先のような場所でした。なんとなく道しるべ石のところまで来る道はあるように思えたのですが、その先が道があるのかどうかわからなかったです。

 

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さらにまっすぐ歩いていくと、以前桜の時期に行ったことがある清雲寺への道が左の脇道に見えてきました。

 

この付近から桜の時期には臨時駐車場になるような場所がいくつか見えます。

 

さらにまっすぐ歩いていくと、道の左に「清雲寺と若御子神社参道入口」の看板が見えます。そのそばに「念仏塔」の石碑です。これは安政五年のものと言われています。

 

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この写真は桜の時期だったので、巡礼道からいったん離れて、まずは若御子神社に立ち寄りました。

 

参道の鳥居と狼タイプの狛犬です。肋骨が見えるタイプは狛犬というより狼なのだそうです。

 

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社殿前の階段のところにある狼タイプの狛犬と鳥居です。

 

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若御子神社の境内に上がる階段のそばには、勢至菩薩や弁財天、庚申塚など石碑がありました。神社ですが、菩薩とか。

 

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ここまで来たので、若御子断層洞も見学しました。

 

この付近では熊が出たこともあるそうです。

 

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断層洞は、若神子神社の裏手にある山の途中にあります。山のほうからは、若神子神社の参道と、隣にある清雲寺へ続く道が見えました。

 

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枝垂れ桜の時期は人が多く集まる清雲寺です。樹齢600年の枝垂れ桜は一度は見ておきたいです。

 

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本堂には、清雲寺事件の弾丸跡があるそうです。境内にはお地蔵様のほか、如意輪観音や馬頭観音の石碑もあります。

 

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さて、話を巡礼道に戻します。

 

神社の参道から巡礼道に戻りまして、先へと進みました。

 

若神子神社と清雲寺の先程の参道入口からさらにまっすぐ歩くと左にゆるくカーブして、変形の四つ角に当たります。

 

反対の向こう側から歩いて来ると、二又になる分岐点に供養塔や馬頭尊、大黒天など石碑がいくつかまとまってあります。ここは廃寺跡と言われています。

 

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その中のひとつ、地蔵菩薩の台座に「右 三十番」と書かれていました。

 

歩いて来た道の右側にあった地蔵菩薩です。台座はしっかりしていましたが、地蔵尊はかなり崩れてしまっていました。ここの道をV字のようにして右に曲がります。

 

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右に曲がってすぐのところに、左に入る道があります。武州中川駅へ向かう道になります。

 

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道なりに歩いていくと、二又になった道の分岐点に、「札所 三十番道」と書いた道標が立っていました。巳待塔もありました。

 

その分岐点では、右側を通ります。そこからはひたすら武州中川駅を目指して歩きます。

 

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武州中川駅に向かう秩父鉄道の線路脇に出る道とさらに先に進んでから武州中川駅に行く道との分かれ道の正面に、江戸巡礼古道の札と、如意輪観音の石像と地蔵菩薩の石像がありました。

 

ここもさらにまっすぐ先に進みます。しばらくすると、秩父鉄道の線路が見えて来ます。

 

本来の巡礼道は、線路を突っ切って駅を横切り国道140号、秩父往還の道まで出るのですが、現在は駅を横切れないので、いったん左に曲がり線路に沿って歩きます。

 

道路のその先に踏切があるので、踏切を渡って向こう側の国道140号の方へと向かっていきます。

 

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 ちなみに、これが武州中川駅です。

 

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国道140号、秩父往還に向かっていくと、右手にJA荒川の建物が見えて、その道の左側に地蔵菩薩座像があります。台座の下の石は新しくなっていました。ここからは国道140号に沿って歩きます。

 

 

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荒川東小学校前に国道140号から右の脇道へ入る二又があります。

 

ここの入口には、「歴史の道 秩父甲州往還道」と書かれた柱が立ってました。ここは荒川総合支所の裏手の道になります。

 

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道なりに歩いていくと、二又に分かれる道があり、左の道に少し入ると、巳待弁財天供養塔があります。

 

その対面に、歴史の道秩父甲州往還道の柱が立ってました。左の道には入らずに、右の道を道なりに歩いていきます。

 

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右の道を歩いていくと、川の方へと下る道が見えてきます。そちらの道を歩いて安谷川へと向かっていきます。

 

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川へと下る道の途中に「史跡 翁塚 」と書いてある柱がみえます。

 

ここには、前に札所二十八番から二十九番へ向かう途中にあった「諸の翁塚」と同じく、芭蕉の句碑があるのです。

 

秩父市のサイトによると、「安政2年(1855)建立、自然石の碑には『む可し幾計 秩父殿さへ 寿まふとり(昔きけ 秩父殿さへ すまふとり)』と記されている」とのこと。

 

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さらに道を下っていくと、川が見えてきます。

 

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沢のようなところを渡る橋も見えてきました。 

 

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しかし、この先は現在、通行止になっていました。

 

本来なら、先程見えた木の橋を渡って対岸に行くのが江戸巡礼古道だったのですが、残念ながら、今回は回り道してから対岸を上っていく道へ行くことにしました。以前に江戸巡礼古道を歩いていた人のブログを読むと、川を渡ればすぐに上にいけるようでした。

 

古道は荒川中学校の裏手の坂道につながるとのことなので、まずは荒川中学校へと向かいました。

 

 

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国道140号、秩父往還の道まで戻りました。途中、荒川上田野の坂口にある薬師堂など見ながら荒川中学校へと行きます。

 

ここの薬師堂には薬師如来立像があるそうです。秩父市によると、「木造寄木造、像高約2mである。元禄期贄川の常明寺の住職であった即道の作といわれている」とのこと。

 

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国道140号の秩父往還にもいくつか石碑はあって、巳待塔のようでした。

 

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遠回りをしたついでに安谷橋を見ながら、国道140号を歩きます。

 

国道140号の道路と、橋の上の公園になっている安谷橋と、秩父鉄道の橋と重なって見えます。3つの通りということです。一番奥に見えるのが秩父鉄道の橋です。

 

ここは、秩父鉄道を写真に撮る人たちの撮影スポットになっているそうです。確かに、遠くに山々も見えて景色がいいです。

 

安谷橋のところを過ぎると、荒川中学校が近くなってきました。 

 

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ちなみに、安谷橋という名前から、秩父鉄道の鉄橋かと思っていたのですが、橋の上の公園のようになっている場所、橋が安谷橋でした。

 

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国道140号から荒川中学校はすぐ見つかりました。中学校の裏手にはお地蔵様のほか庚申塔など石塔が固まってある場所がありました。ここが古道の道端だったのでしょう。

 

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そこで、安谷川の対岸はどこだろうかと探してみることにしました。

 

「安谷川の対岸に渡ってからは坂道を上る、その後荒川中学校の裏手に出る」ということが歴史の道報告書に書いてあったので、中学校裏手のお地蔵様のところを過ぎてまっすぐ歩いてみました。

 

「歴史の道 秩父甲州往還道」という荒川支所の裏手でも見た歴史の道の柱が立っていました。

 

そこには「安谷川を経て、上田野に至る」と書いてありました。これだ、ここが秩父甲州往還だと思って、そのまままっすぐ行ってみることにしました。

 

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その先は、民家の家の前のような雰囲気で、おそらくこの坂道を上ってくるのだろうなと思う場所は見ることができましたが、下までは降りませんでした。

 

この川を渡った対岸側には無かったのですが、先程の川を渡る前の道には「通行止」と標識があったので念の為に、下へ行くのはやめておきました。

 

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ということで、ここはいったん対岸から上がってきたことにして、まっすぐ歩いてお地蔵様のところまで戻りました。

 

荒川中学校が前に見えてきて、突き当りが荒川中学校という場所の道の左手に お地蔵様と庚申塔があることを確認しました。

 

「一の木戸」という地名なのでしょうか。庚申塔に書いてありました。そのほか、石仏らしき像や石碑もありました。

 

中学校の裏手に残しておいてくれているのです。お地蔵様のところで、右に曲がって、中学校のグランドに沿って歩きます。

 

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途中、二又になる場所もありますが、そのままグランドに沿って行きます。 桜の時期だったので、学校の桜並木道を歩いて行きました。

 

ここ付近一帯は文教地区なのか、歴史民俗資料館や荒川公民館、荒川幼稚園もありました。それらを左に見ながらまっすぐ歩きます。

 

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下り坂になってきたと思ったら、矢崎沢と呼ばれるところを渡りました。沢というのですが、水が流れているのはあまり見えなかったです。

 

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その先を行くと、今度はゆるい上り坂になります。道なりに歩いていくと庭に花の木が美しい家の前で道が左にカーブして、国道140号に出ました。

 

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国道140号、秩父甲州街道に出る直前の道の右側には、馬頭観音の石碑がありました。これらも昔は目印となったのでしょう。

 

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大きな橋が右側にあるのを見ながら、さらに国道140号を歩きます。「道の駅あらかわ」の看板が見えてきます。

 

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しばらく歩くと、左脇に旧街道のような脇道が見えてきます。

 

その分岐地点に立つ石碑です。三峰山講中が建てた石碑です。「左舊(旧)道」となっています。

 

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石碑の右側は、「三峰山新道」です。今の国道が新道なのでしょう。

 

国道ではなく、旧道に入っていきます。旧道の方が、高い場所になります。さらにまっすぐ行くと、「道の駅あらかわ」の看板が見える二又道になります。右側の道を歩きます。

 

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しばらく歩くと、振り返る形になりますが、すぐに見つかると思う場所、道の左側に延命地蔵菩薩が祀られた祠があります。

 

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その地蔵菩薩の台座にも道しるべです。「右 浄光寺道 左 大宮道」大宮は秩父市内のことです。

 

その前には「松葉区」の文字も見えます。調べてみると、浄光寺はすぐ近くの寺院でした。

 

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地蔵菩薩の祠からほどなく駐車場のような広場のところに、また「歴史の道 秩父甲州往還道」の柱がありました。

 

ここでは「日野を経て白久に至る」と書かれていました。

 

ここは国道140号に比べたら、車の交通量も少なく感じました。これからの道は武州日野駅から白久駅方面に向かいます。日野地区から白久地区への道です。

 

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駐車場のような広場が終わり、道の右側、ガードレールのところに馬頭観音の石仏がありました。

 

本来の巡礼古道は、この馬頭観音のところから、右に降りて、将軍沢を渡ったそうです。

 

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 現在は沢への道がないので、そのまま歩いて将門橋(まさかどばし)を渡ります。 

 

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将門橋を渡り終わったら、道の左脇のところに馬頭観音の石像です。

 

こちらは草に埋もれているうえ、二つになっているのか全体像がよくわかりませんでした。「馬」の字は見えると思います。

 

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秩父甲州往還の道を歩いていきます。途中、くねくねした道になりますが、前方に秩父鉄道の線路が見える手前で、道の左側、道から高台に上がったところに薬師堂がありました。

 

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ここの薬師堂は令和二年に建て替えられたばかりで、新築でした。

 

薬師堂の中には木造薬師如来像があるそうです。

 

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薬師堂のすぐそばに文化三年の馬頭観音像と、地蔵尊が二体、ありました。

 

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薬師堂からも正面に秩父鉄道の線路が見えます。

 

大きく右にカーブした道を歩いていきます。ここから先は、道のすぐそばを秩父鉄道が通るところを歩いていきます。

 

巡礼古道は、沢のところで、秩父鉄道の線路を向こう側に行ったり、来たりする部分がありますが、現在は通れないようです。線路があるからでしょう。

 

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 秩父鉄道の線路に急接近した場所からは、荒川白久に入るそうです。

 

白久の地域に入ってすぐに、道の右側、森のように木々が茂っているところに畠山重忠の乳母を祀ったといわれる祠(乳母神様)があります。

 

私自身も通り過ぎてしまって探しながら再度戻り、なんとここにあったのか、と気づいたくらい気をつけてみないと、通り過ぎてしまうような場所にあります。林の木々の中にあると言ってもいいでしょう。

 

地元の人々からは、この神様はオバッコと呼ばれていて風邪の神様として信仰されてきたそうです。

 

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近くには「 姥神橋」という橋もあるくらい乳母神様は信仰されてきたのでしょう。

 

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しばらくは秩父鉄道の線路沿いを歩くことになります。

 

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湯の入沢のところに、赤い橋の秩父鉄道の線路があります。沢の直前で秩父鉄道の線路を下で越えて向こう側に行き沢を渡ったところで、秩父甲州往還に戻る道があります。

 

その道が巡礼古道だそうです。見えるのですが、今はそちらは通行はできないようになっていました。

 

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確かに遠くから見ても旧道っぽい感じは残っていました。

 

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赤い橋の下の旧道らしき道が、今歩いている秩父甲州往還に戻り、そこからすぐの場所の左側に三体の「馬頭観音」「馬頭尊」の石碑が建っていました。

 

この中のひとつが寛政九年のものだそうですが、線路沿いの高台に上がる道は塞がれていて、近寄ることもできませんでした。

 

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さらに歩くと、線路脇が草原になっているところが見えてきます。そこには、またもや薬師堂がありました。

 

この荒れ果てた薬師堂から秩父鉄道の線路の向こう側に行くのが巡礼古道だそうです。 

 

 

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線路付近から向こう側を遠くから見てみると、草原のようになっていて道がよくわかりませんでした。 

 

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おそらく向こう側を線路に沿って歩いて、この踏切に出るのだと思われます。

 

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この踏切から下に歩いていくと、この写真に見える秩父甲州往還に建てられた道案内の柱があります。

 

この場所でまた秩父甲州往還の道に戻るのだと思います。今で言えば、巡礼道は秩父鉄道の線路をまたいで越えたり、戻ったりした道だったようです。江戸時代は秩父鉄道の線路は、当然のことながら無いわけです。

 

この標識によると白久駅まであと550メートルとのことです。

 

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なお、先程の踏切のところから、標識が立っている合流する地点までは高台にあるので、とても眺めがよい道を通ります。 

 

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白久駅までの道には、ニリンソウやカタクリ、アズマイチゲの自生地がありました。

 

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カタクリの花の時期は終わっていましたが、ニリンソウが咲いていました。

 

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白久駅まで、あと240メートルのところで、道の右側に「白久の串人形芝居」の説明書きがありました。

 

公民館のようなところで、芝居を行っているのでしょうか。

 

4月にやっていると秩父市のサイトにありました。「この串人形芝居の誕生は、江戸幕末から明治初期頃、白久豆早原に住む人たちが太田村(現秩父市)の人より22体の人形を買い求め、一座を組織し現在に伝わる操法を編み出し上演したものである」とのことです。中断された時期もあったそうですが、幕末から続く人形芝居です。

 

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白久豆早原の集落を過ぎ、 高橋という苗字みたいな名前の橋を渡ります。

 

その橋を渡る直前に道の左を通る秩父鉄道の線路のそばに馬頭観音の石仏がありました。ここの川は谷津川です。

 

高橋を渡るとすぐに左に曲がります。

 

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高橋を渡ったら、すぐに左に曲がり、正面に秩父鉄道の踏切が見えるので線路を越えます。

 

線路を渡ってすぐの、道の左側に道標がありました。

 

「三峰山道 秩父町方面に至ル」と書かれ、また別の面に「札所三十番約八百米 鹿の湯道約千五百米」と書かれている石柱です。

 

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その石柱のすぐ近くのブロック塀の前に馬頭観音の石像があります。

 

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左にある細い道の入口手前に馬頭観音の石像があります。この写真の後ろに秩父鉄道の踏切が見えます。

 

この細い道は一見すると、民家の中へ入るように見えますが、山道となっていて、巡礼古道なのです。

 

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左に入る細い道を歩くとすぐに左手に稲荷神社の鳥居が見えました。笠間稲荷神社と書かれていました。

 

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杉木立の間を通る道を上っていきます。林の中ですが、道はわかります。

 

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山道の上り坂が終わると、道が明るくなり草原のような開けた場所が見えてきます。

 

その手前に祠が見えました。表側をみると、「双体道祖神」が祀られている祠でした。その隣の小さな神社のようなものが、「飯玉大明神」だと思われます。

  

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この双体道祖神は、別の場所からこの場所に移設されたものだそうです。

  

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双体道祖神がある祠から広場のような場所から舗装された道へと左に出ていきます。舗装道路の手前に双体道祖神、飯玉大明神の看板です。橋場区と書かれています。

 

ここからは、白久駅からの札所三十番へ続く道になります。江戸巡礼古道ではなく、秩父鉄道の白久駅から来た人もこの道を歩きます。

 

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三十番までの道は谷津川に沿った道で遠くに山々が見え、季節によっては道沿いにロウバイの花やヤマツツジの花が咲く景色の良い道です。

 

おそらく最近、舗装され道が整備されたのではないかと思うくらいきれいな道になっています。

 

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ちなみにロウバイの花が咲く頃は、ロウバイ街道、と言えるくらい道沿いにロウバイの木が続いています。

 

舗装されたハイキングコースというイメージの道です。

 

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さて、札所三十番が近くなってくると、上下に分かれる二又の道に出ます。

 

この分岐するところに供養塔があったとのことですが、道を新しくした時にでも移動したのか、ここには見当たりませんでした(後でわかったのですが、札所三十番入口のところへ移設されていました)。

 

二又の右側の道を歩きますと、だんだん高台になってきます。左の道は谷津川館への道のようで、下のほうにみえました。 

 

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坂道を上っていくと、前のほうの正面に国の施設のような門や建物が見え、その手前に「秩父三十番入口」の石碑があるのが見えてきました。

 

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「秩父三十番」「法雲禅寺」と書かれていました。この石碑が立っている場所が山門跡だそうです。 やっと札所三十番に到着です。

 

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参道を挟んで対面に「三十番入口」の供養塔がありました。おそらく二又に分かれる道を新しくした時にここに移動されたものと思われます。

 

「奉順礼秩父三十三度供養塔」と書かれているので、かつて二又のところにあったと言われる供養塔でしょう。

 

これらの石碑の間を通って庭園が美しい札所三十番、法雲寺の境内に入っていきます。

 

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札所二十九番から札所三十番までの道のりが長いですし、ここ札所三十番から三十一番までも距離があるので、ここでいったん打ち止めにして巡礼古道から離れ、白久駅から秩父鉄道で帰る人もいるでしょう。

 

 

本来は、江戸巡礼古道では白久駅を通ることはないのですが、白久駅付近も少しだけご紹介します(江戸巡礼古道を通るとなると、白久駅までは行きも帰りも行かないことになります)。

 

白久駅の付近の上り坂には地元の人たちが勧請したような稲荷神社がありました。

 

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また白久駅のすぐ近くには、昔は巡礼宿だったのではないかと思うような古い建物もありました。 

 

以前は駅前付近も活気があった場所だったのではないかなと思いました。

 

 

札所二十八番から二十九番へ

テレビでもよく特集番組に取り上げられているので、見たことがあるかもしれませんが、札所二十八番の橋立堂は 武甲山の麓にあります。

 

岩盤が背後に立っているという特殊な地形の場所にあります。さらには、納経所の隣には橋立鍾乳洞への入口があります。この鍾乳洞は12万年前にできたものと言われています。

 

珍しい地形にあることや鍾乳洞があるために、巡礼の人以外にも参拝に訪れる人が絶えない橋立堂です。

 

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札所二十八番の橋立堂で参拝したら札所二十九番に行きます。なお、橋立堂は冬の間(だいたい12月中旬頃から3月くらいまで)は、納経は札所二十七番の大渕寺で行っています。

 

山門から出て、来た時と同じ道を歩きます。先程、浦山口駅へ降りる分かれ道に、道しるべ石があることを書きましたが、札所二十九番へはその分かれ道まで行きます。

 

今度は浦山口駅のほうに行きます。向かって左の道を降りていきます。

 

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山の中の道を進んでいくと、途中で道が開け、西光寺が見えてきます。

 

ハイキングコースの人たちは、そのまま道を降りていきますが、巡礼道は西光寺の駐車場で右側に入ります。上の写真でもわかるように、左側は降りてきた道です。右側の駐車場の先の草むらに入っていきます。

 

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一見すると道がないように見えますが、先に進むことができます。知る人ぞ知るの道なのかもしれません。

  

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草むらを抜けると、稲荷神社の参道があります。平沢稲荷神社というのだそうです。

 

ここは稲荷神社の参道を歩きますが、稲荷神社のほうに行かないでそのまま浦山口駅の方へと降りていきます。

 

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 私は稲荷神社には行かなかったのですが、稲荷神社への道は階段状になっていました。

 

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この参道を下って行きます。

 

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稲荷神社へは、石段からも行けるようになっていました。木々の間を抜け、巡礼道は山のほうから下ってきている道です。

 

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下まで行くと先程の西光寺の駐車場で分かれた舗装道路に合流します。その合流するところの道端に、草の中に隠れるようにして、道しるべ石がありました。

 

見過ごしてしまいやすいのですが、心求・はまの道しるべ石と書いたいつもの説明書きがそばにあります。ここに道しるべ石があることからもわかるように今下りて来た道が古道なのですね。

 

この道しるべ石には「ひだり 二十九番」、右面に「ひだり大宮」、石の裏面左に 「みぎ 二十八番」と書かれているとのこと。説明書きにも書いてありますが、大宮は秩父市内のことです。とはいえ、刻字はかなり薄くなっていてほどんどわからない状態でした。説明書きが、そばにあるからわかったようなものです。

 

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その道しるべ石からそのまま直進して広くなっている平場のような場所から下の道へ降りていきます。

 

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 広場のような場所から、広めの道へ降りる道があります。 この道を通って秩父甲州往還と言われる少し広めの道に出ました。

 

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その道を道なりに歩いていると、諸下橋に着きます。ここを流れるのが橋立堂へ行く途中では見ることができなかった橋立川です。橋の先には、キャンプ場入口と書いてある看板がありました。本来の旧道は北側下だったそうです。

 

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歴史の道報告書によると、橋立川の左岸には旧の橋の橋脚を建てた跡が残っているそうなのですが、それっぽいものはありましたが確信は持てませんでした。

 

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橋を渡り、さらに歩くと、道が二手に分かれます。

 

左の道は上り坂になっています。左側の道を上っていきます。最初はゆるやかに左にカーブして、高いヒバの木が見えて、旧家のような民家の先で右に折れていきます。道なりなのでわかりやすいです。

 

諸の高札場

 

直進すると道の右側、民家の庭先に秩父市の史跡である「諸の高札場」跡がありました。

 

江戸時代、重要事項は村の高札場に掲げて周知させていたということなので、村には高札場があったわけです。

 

秩父市の説明によると、「久那村(諸)の高札場の遺構はただ礎石の一部のみであるが、隣家の諸家には当時の高札が残されている」とのこと。ここは石詰みされているものがあるのみでした。

 

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高札場跡のお向かい、道の左側にはお地蔵様です。 

 

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さらに直進すると、T字路のような二又の分かれ道になります。直進する道の右側には道しるべ石がありました。

 

「みぎ 二十九番 ひだり 日原」となっている心求・はまの道しるべ石です。

 

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 道しるべ石のある分かれ道を右に曲がって下へ降りていきます。また、先程まで歩いていた広めの道に戻ります。

 

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少し道を戻るようにして歩くと、秩父市の注意書きの看板「サイレンが鳴ったら川から離れて」のそばに下へ降りる道がありました。

 

古いガイドブックには、浦山渓谷キャンプ場と書かれていました。

 

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キャンプ場は現在営業していないようでした。

 

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降りていくと、遠くのほうにポツンと石が立っているのが見えました。浦山川のすぐそばです。 

 

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永代橋を供養するために建てた石碑です。川に向かって建てられていました。

 

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下のほうに「永代橋供養」と書かれていました。安永三年の永代橋供養塔でした。

 

このことから、ここに橋があったことがわかります。江戸時代はここで川を渡って対岸に着いたようです。

 

とはいえ、今は川を越えることができませんので、少し遠回りになりますが、別の道を通ることにしました。

 

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先程の心求・はまの道しるべ石、「みぎ 二十九番 ひだり 日原」と書いてある石のところまで戻りました。

 

今度は、右に曲がらずに直進しました。高台の道を歩いていると途中で二又道になり、右側の道を進みます。

 

すると、すぐに芭蕉の句碑が見えてきます。秩父市指定史跡の「諸の翁塚 芭蕉句碑」です。

 

この句碑は、かつては浦山川と橋立川の合流地点近くの諸下橋脇に建てられていたそうです。ここまで来る時に通ってきた橋です。

 

それが移転し、現在は、札所二十九番への巡礼道につながるこの地に移されてきたそうです。

 

この句碑には、「草臥(くたびれ)て宿か留比(るころ)や藤の花」と刻まれているとのこと。かなり薄くて読みづらい印象です。芭蕉の句碑に関しては札所二十九番から三十番への途中にもありますので、そちらでもご紹介します。

 

 

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先程は、諸下橋を渡りましたが、今度は諸上橋へ向かいます。

 

諸の地域の「上」という橋なのでしょう。まるで鉄橋のように見える橋が見えてきました。

 

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本来なら江戸巡礼古道は浦山川を渡って対岸に着くはずなので、たどり着いた対岸はどこかと見晴らしのいい場所から見て、当たりをつけてみました。

 

おそらく対岸は森のように見えるところではないかと思いました。

 

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諸上橋を通ると、左手には遠くにダムが見えます。浦山ダムです。

 

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諸上橋からの眺めはおすすめです。特に桜の時期は。

 

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諸上橋から右側を見たら、ちょうど桜の時期だったので、札所二十九番の門前にある大きな「枝垂れ桜」が遠くからでも見えました。

 

上の写真では左端に小さく写っています。橋を渡ってからは右に進むと、途中二又になっている場所が見えますが、ひとつは一般の道ではなく、河川管理用通路となっていて通行はできません。

 

そのまま道なりに歩きます。坂を上っていくと、大きな枝垂れ桜が見えてきて札所二十九番、長泉院に到着します。

 

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しかし、その前に江戸時代、浦山川を渡った後の対岸はどこだったのか、探してみることにしました。

  

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以前、札所二十九番に訪れた時、門前の斜め前に札所につながる道があり、その道は国道140号、秩父往還につながっていました。

 

そちらに行ってみました。 前に来た時は、林に囲まれて薄暗い場所がきれいに舗装されて新道になっていました。

 

その途中に地蔵塔と観音塔がありました。観音塔の台座には「右 廿八番」と書かれています。

 

これを見て浦山川を渡った対岸からこの地蔵塔と観音塔に来るはずと思い至り、その手前の道を右に入ってみました。 

 

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杉木立の先に広い原っぱのような場所があり、その先に大きな岩がありました。

 

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大きな岩の先は林のようになっていて、これが諸上橋から見た時、森のように見えた場所だと思いました。

 

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林の方へまっすぐ歩いていくと、やはり思ったとおり、心求・はまの道しるべ石がありました。これが江戸巡礼古道だったのでしょう。今は、川を越えて行かないので、この道は使っていないようです。古道として残しておいてあるだけのようです。

 

この石はけっこう刻字が読みやすくなっていました。心求・はまの道しるべ石の説明書きに向かって、左側の面には「ひだり 廿九番」と書かれていて、正面には「みぎ 廿五番」と書かれていました。

 

江戸時代のガイドブックである『秩父順礼独案内記』にも、二十五番から二十九番へ行くことも書かれていたので、道しるべ石にも二十五番のことが書かれているのだと思いました。

 

心求・はまの道しるべ石を後にしてさらに先に進みました。 

 

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森のような場所から下へ降りる坂道があり、ダム工事用の河川管理通路が見えました。河川管理通路まで降りていいのかわからなかったので、下までは降りませんでした。

 

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 河川管理通路の道を上から眺めると、船着き場のようにも見える場所もありました。しかし、巡礼道はどこだったのかはわかりません。下まで下りていないので。写真も遠くから撮ったものを引き伸ばしているだけです。

 

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元来た道を戻りました。おそらく江戸時代は川を渡って、対岸にたどり着いたらこのように杉木立を抜け、先程、行きに見た心求・はまの道しるべ石のそばを通り、観音塔と地蔵塔の前を通ってから札所二十九番に行ったのだろうと思います。

 

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地蔵塔と観音塔に向かって右手奥が浦山川を越えてきた巡礼の人たちが通ってきたと思われる道です。

 

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この地蔵塔も観音塔も同じ行者が奉納したようです。施主のところに「行者善心」と見えます。

 

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地蔵塔と観音塔から札所二十九番方面を見たところです。この光景が江戸時代通った道からみた光景でしょう。地蔵塔と観音塔の脇の道を札所二十九番の方向に進みます。

 

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先に進むと二又の道になり、その分かれ道のところに鉄塔が見えます。

 

その前には道しるべ石がありました。正面に「ひだり 二十九番」の心求・はまの道しるべ石です。「為 一切流生」と書いているようです。

 

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その石の右側面の「願主」の隣に書かれている文字は、「みぎ 二十九番」です。

 

同じ二十九番の道しるべでも、心求・はまの説明が書かれた案内板に向かって正面は左の道、右面は右の道を示しているのです。

 

二又の道のどちらの道を通っても二十九番に着くということの意味のようです。右も左も二十九番ですから。

 

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こちらの左側面には、「ひだり三十番」です。

 

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鉄塔のそばの分岐地点の付近には庚申塔がありました。後ろには記念碑のようなものもありました。

 

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鉄塔の付近には、他にも地蔵菩薩の石碑などもありました。

 

この二又の道はどちら側を通っても札所二十九番には到着しますが、右側を通ると山門から離れるので、少し遠回りになります。左側の道を通ると、ほぼ正面に札所二十九番の門前に着きます。

 

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札所二十九番の長泉院は門前の枝垂れ桜が有名です。

 

札所二十九番の近隣には、桜で有名なお寺がいくつかあり、桜の見頃の時期には清雲寺、昌福寺、千手観音堂などと一緒に参拝する人もいます。

 

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門前のお地蔵様の台座に「廿九番」と書かれていました。

 

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枝垂れ桜のそばには、明治四十三年三月廿八日の銘が入った「卒業記念植樹枝だれ桜」の碑もありました。

 

この桜の木は、明治時代に植えられたものなのでしょうか。明治四十三年は、西暦だと1910年ですから、2022年から見れば、約110年経つ木ということなのかなと思いました。

 

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 本堂に通じる参道には、神社でよくみるような石柱もありました。

 

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長泉院は石の納め札があって、別名を「石札堂」とも呼ばれています。「笹戸山石札道場」と書かれた石碑もありました。その隣は、「篠戸山長泉禅寺」と書かれた石碑です。

 

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その奥にも石柱がありました。文字が書かれているのですが、達筆すぎて読めません。

 

そのそばの木札には、その時期に咲いている花の名前が書かれています。開花情報のお知らせのようでした。

 

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その季節ごとに異なる花もきれいなのですが、美しい枯山水庭園も見事です。 

 

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笹戸観音の故地と呼ばれる場所が今の長泉院の裏手にあるとのことなので、裏手に見える広い原っぱのような場所がその跡地の場所かなぁと思いました。

 

そもそもはこの近くの山の岩壁の下に懸崖造りの観音堂があったそうなのですが、火災にあって今の長泉院の裏手の寺域に移り、さらにそこから今の本堂の場所に移ったそうです。

 

 

札所二十七番から二十八番へ

 

札所二十六番から二十七番までは琴平ハイキングコースを通るという山道コースを通ります。山道を下って札所二十七番は、まず観音堂に到着です。

 

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観音堂に向かって左には、護国観音がよく見える場所(遥拝所)もあります。写真を撮るのもいいですね。

 

ぜひ、観音堂から、そして大渕寺の山門からも護国観音をみておくといいですよ。下から眺めるといかに大きな観音様かがわかります。

 

特に、紅葉の時や岩つつじが咲く時はおすすめです。桜の咲く時期もいいのです。

 

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琴平ハイキングコースからやってくると、札所二十七番の場合、最初に観音堂、そして大渕寺の本堂、それから「観音山延命水」と順番に通ることになります。

 

納経を済ませたら、山門から出ていきます。裏手から入ってきて最後に山門を見るというコースです。普通のお寺の参拝とは逆に行くわけです。

 

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参拝を済ませ納経を終えたら山門を出ていきます。

 

山門をでてから、さらに石の柱があって、そのそばには、「二十七番目」と書かれた石です。

 

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山門を出てさらに歩いていくと、山門に向かって左側に延命地蔵の祠がありまして、その前に「影森用水」があります。

 

影森地区は昔から井戸を掘っても水が湧き出ないので水に困っていたそうです。それを私財を投じて用水を開いた人がいます。今は用水路跡になっていて文化財として残されています。

 

その用水路跡の前に、「廿八ばんみち」と書いてある道しるべ石がありました。

 

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道を挟んで参道前にある駐車場には、「巡礼道」の道しるべ石です。「右 二十六番 左 二十八番」と書いてあります。

 

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山門から出て参道を歩いていくと、正面に秩父鉄道の線路が見えます。秩父鉄道の踏切を渡ってすぐの道を左に曲がります。

 

ほぼ線路の真横というくらい接近した道なので、この道でいいのかと思うほどです。これは徒歩専用の道でしょう。

  

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秩父鉄道の線路と平行して歩いていきます。

 

住宅地の中を道なりにまっすぐ歩いていくと突き当りのT字路になります。その正面には立派な門があります。黒澤本家長屋門です。

  

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T字路を左に曲がっていきます。「この先行き止まり」と書いてありますが、それは車に対してであって、歩行者は通ることができます。

 

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以前はT字路の正面近くにあったようですが、もう少し歩いてから道しるべ石がありました。

 

「右 廿七番 左 大宮四里」 と書いてあります。大宮は、秩父市内のことです。秩父神社が宮です。

 

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その道しるべ石のすぐ左隣りに、道標が倒れていました。どうして倒れたままなのか。

 

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石の三面に文字が書いてあって、上の面には「正面 二十八番鍾乳洞ニ至ル」と書いてあって、右側の面には「右 二十七番ニ至ル」と書いてありました。

 

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左側の面には、「左 県道ニ至ル」と書かれていました。これは大正十一年の石柱だそうです。それにしても大正時代からある石柱をなぜ、倒したままにしているのだろう。

 

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 「通行止」の印がありますが、秩父鉄道の線路の上に陸橋があってそこを渡ります。ここは、徒歩専用の道のようでした。

 

説明書きには「この先、琴平ハイキングコースのため、一般車両の通行はできません」と書いてありました。

 

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この陸橋は見晴らしがよく、秩父鉄道の線路を通る列車の写真を撮りに来ている人たちがいました。 撮り鉄には有名な場所なのでしょうか。

 

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 陸橋を渡るとすぐに右に曲がります。山際の道を歩いていきます。これが琴平ハイキングコースなのです。

 

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一見すると車も通れそうな道なのですが、道の入口には看板があり、「琴平ハイキングコースのため、一般車両の通行はできません」の文字があります。

 

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散歩している人やハイキングコースを歩いて来た人、そして巡礼の人たちは歩いていきます。「巡礼道」の札もありました。

 

山裾の切り通しの道を歩いていくと、自動車が通れない道は終わって、その先には工事用のプレハブが立っていました。二又の道になっていますが、右の道を歩いていくと県道73号に当たります。

 

県道73号にあたったら、左に曲がり、水道局の橋立浄水場の前を通るとすぐに、右の脇道へ入る道があります。その分かれ道には橋立堂への矢印の看板が立っています。そこまで行く途中にも橋立堂への矢印の看板がありました。

 

脇道は旧道のような道で、まっすぐ歩いていくと「甚太郎そばの土津園」の看板など、橋立堂の境内にある喫茶店やそば店の看板がいくつか見えます。

 

民間の駐車場を過ぎると、舗装された道ですが、山道の中のような景色になります。

 

木々が生い茂る道なので、すぐ下を橋立川が流れているそうなのですが、見ることなく通り過ぎました。

 

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上には県道が走っている谷あいのような道を歩いていきます。

 

上を県道が走っている場所の右側下に、浦山口駅へと向かう道があって、そこにも「巡礼道」の道しるべ石がありました。「右 二十七番 左 二十九番」と書かれていました。

 

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写真の見える真ん前に柱が見えるのは、上を県道が走っているからです。

 

この二又の道のところには 、札所二十九番への道へ向かう時も戻ってきます。ただし、ここから先は「この先転落の恐れがあるので、車両の通行はできません」となっているので、徒歩の道になります。

 

まずは二十八番に行くので、ここを通りすぎてさらに先へと歩いていきます。

 

札所二十八番橋立堂への参道となる道と、武甲山の登山口へ向かう道と分かれる道が見えます。

 

その先の道は上下に分かれることになります。札所二十八番への参道は、左側を歩いていきます。その道すがら、喫茶店やそば店の看板があるので参道への道はわかりやすいです。

 

ちなみに、ここの道は琴平ハイキングコースとなっているように山の中の道です。私が行った少し後に、この付近で熊が出たという報道をみました。

 

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参道を歩いていくと、左手に二十八番橋立堂の入口の石柱が見えます。

 

入口の石柱や橋立堂の堂宇よりも先に、高さ六十五メートルの切り立った岩のほうが目に飛び込んできますから、すぐにわかります。

 

札所二十八番に到着です。

 

札所二十六番納経所の円融寺から札所二十六番の岩井堂を通って二十七番まで

札所二十六番岩井堂から札所二十七番はその多くが琴平ハイキングコースと重なります。

 

岩井堂までは昭和電工の敷地を通る、いつもとは違う道を味わうことになります。敷地内を通らせていただくわけです。

 

さて、円融寺の納経所の裏手には牡丹の花が植えてある庭があって、その庭のほうから山に沿って、岩井堂や札所二十七番へ行くことができる細い道があります。

 

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裏手の庭まで行けば、円融寺から裏道に抜けることができるその細道が見えてきます。円融寺で先に納経を済ませてから岩井堂へ進みました。

 

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公園のような広場に出たら、右に曲がります。

 

まっすぐ歩くと、四つ角に出て、左にまがります。その左の角には地図も掲げてありました。

 

左に曲がってから昭和電工の駐車場の間を歩く道になります。行きに通った昔の巡礼宿だったという場所に、また戻ります。

 

その角を今度は左に曲がります。本来の江戸巡礼古道は、円融寺ではなく山の中の三百段の階段の途中にあったので、左に曲がったらそのまままっすぐ岩井堂へと向って行きます。しかし、他の道しるべ石を見るために、すこし遠回りしてから昭和電工の敷地へと向かいました。

 

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昔の巡礼宿があったというところから、一つ目の角を右に曲がって行きます。突き当たりの左側に「左 二十七番道」と書いてある道しるべ石があるので、ここを左に曲がります。その道をまっすぐ行くと、昭和電工の敷地が見えてきます。

 

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昭和電工の敷地に当たる場所の手前に用水路があり、そこはT字路になっていて正面に「右 二十七番」と書かれた道しるべ石がありました。

 

右に行ったら札所二十七番ですが、札所二十七番へ行く前に、本来の札所二十六番、岩井堂に行かなければなりませんので、ここでは右の二十七番ではなく、左に曲がります。 

 

昭和電工の敷地へと入っていきます。昭和電工秩父工場の正門入口の受付で守衛さんに岩井堂へ行くことを告げて工場敷地内へ入ります。決められた場所を歩くように言われますので、そのとおりに歩きます。なお、工場の中の道は写真撮影禁止です。

 

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昭和電工の工場敷地の道を通りぬけると、正面にまず見えてくるのが琴平神社の鳥居です。

 

隣に「村社琴平大神社」の社碑が見えます。ここからは昭和電工から琴平神社の敷地になります。琴平神社の鳥居を入ると、長く続く高い石段が見えてきます。

 

なお、岩井堂へは有名な三百段以上ある石段を上っていくルートのほかに、この琴平神社の裏手から山道を登るルートがあります。そちらは巡礼古道ではないのですが、琴平神社と岩井堂は関係がありそうなので、琴平神社の裏手の道も書いておきましょう。

 

まずは、江戸巡礼古道である石段のルートからご紹介します。

 

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鳥居に向かって右側にあるのが江戸巡礼古道です。琴平神社には行かない道です。

 

石灯籠のすぐ後ろに隠れたように道しるべ石がありました。片方が心求・はまの「道しるべ石」で「みぎ 二十六番道」と書かれています。

 

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心求・はまの道しるべ石のすぐそば、向かって右隣には、「岩井堂入口」の石もありました。

 

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琴平神社に向かって右側の道を入っていきます。二宮尊徳像が見えてきて、聖徳太子と二宮尊徳を祭神として祀る聖徳宮を通り過ぎていきます。

 

最初はなだらかな山道なのですが、じきに長い石段が見えてきます。

 

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鬱蒼とした林の中にある三百段以上の石段が見えてきます。

 

 

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字が読めないのですが、供養塔のような石碑がいくつかありました。周りは苔むした雰囲気のよい石段なのですが、とにかく長いです。 

 

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石段となってから百段のあたりが昔の納経所があった場所だと、埼玉県の歴史の道報告書には書いてあったのですが、別のガイドブックには、もう少し上に書かれていて階段の途中にある平場のどれが昔の納経所跡なのかが、よくわかりませんでした。

 

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途中にはお地蔵様が並ぶところもあったのですが、ここが納経所だった場所なのか? 

 

 

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 石段の途中で振り返ってみた様子です。下の方にお地蔵様の赤い帽子が見えます。

 

石段はこのように手すりはついています。上りは辛いですが、下りのほうが滑りやすく感じました。私は階段を上ってみたことも下ってみたこともあります。

 

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 石灯籠がある場所が納経所跡だったのかとも思ったのですが、それだと石段になってから百段目くらいの場所というよりは、二百段くらいの場所になるかと思いました。

一体どこが納経所跡なのか。

 

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考えているうちに、札所二十七番へ向かう道との合流地点に着きました。ここは平場になっています。

 

ここは岩井堂の裏手からやってきた人も通る琴平ハイキングコースの一部になります。いわばハイキングコースと巡礼道との合流地点です。

 

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岩井堂のお堂へ登る石段の手前には、「百万遍」の石碑です。 この写真で右手に少しだけ見えるのが岩井堂のお堂です。

 

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石灯籠の後ろに見えるのが山の中にある岩井堂です。

 

今は円融寺の奥の院としても知られています。石段から見て左側の奥の崖に懸崖造りとなっている観音堂です。舞台造りの観音堂は札所の中でも珍しいものです。

 

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岩井堂の裏手には閻魔大王像やお地蔵様があります。岩井堂のすぐ裏手に崖が迫っていて、そこからさらに険しい石段が続いています。

 

そちらまで登っていくと途中に修験堂や大仏座像があります。

 

私も何回か行ったことがありますが岩井堂までの石段以上に裏手の道は急勾配です。修験堂や大仏座像を通る道は琴平ハイキングコースの一部となっています。

 

さて、もう一方のルートである琴平神社を通って裏手から岩井堂へと続く道についてです。

 

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 琴平神社の本殿に続く道のほうも石段続きます。かなり急な坂道の石段です。

 

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琴平神社というと、目を引くのは奉納相撲の土俵です。階段を上ったらすぐ正面にあります。 

 

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拝殿に向かって左には、御神木もみえます。かなり高い木でした。

 

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拝殿の奥にも境内社がいくつかありました。

 

琴平神社を通るコースは、基本、神社の裏手へ、神社の裏手へと進む道となります。

 

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琴平神社の本殿奥に行くと、石段が見えてきます。そちらを上っていきます。琴平神社の本殿も美しく見ておきたい場所になります。 

  

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 稲荷神社の狐を見ながら、裏手を上っていきます。

 

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記念事業の石碑などあります。この山道を上っていきます。

 

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祖霊社が見えてきます。

 

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祖霊社に向かって左に、さらに奥に続く道が見えてきます。

 

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そちらの道には「注意」の札が2つほど見えました。注意の札が置いてある場所は、滑りやすいので気をつけながら登ります。

 

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正面に琴平神社の奥宮が見えてきたので、参拝してみたら、その 裏手に山道が続いていました。

 

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神社をみたら参拝して、その裏手に行く、奥宮もみえたら、参拝してその裏手に、というのが琴平神社から岩井堂への道です。

 

 

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裏手に出ると、琴平ハイキングコースに合流していて案内の矢印がいくつかありますので、その矢印の方向へ進みます。

 

もちろん札所二十六番岩井堂の方向へ、です。反対に行くと、羊山公園に行ってしまいます。 

 

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岩井堂が近いことを感じるのは、石仏があるからでしょう。岩井堂の周りを回るように山道が続きます。

 

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岩井堂が見えてきました。岩井堂に向かって左方向からの到着となりました。

 

琴平神社から上ってくるのは道がわかりやすかったのですが、この岩井堂から琴平神社へと下る場合は分岐点がわかりにくいかもしれません。反対側からですと見える景色も違います。

 

岩井堂の観音堂まで続く階段の下まで戻り、札所二十七番の道へと進みます。

 

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岩井堂近くには平場があって(先程、合流地点と書いた場所)、そこが札所二十七番へ向かう道と、岩井堂の観音堂への道の分岐点になっています。

 

ここには岩井堂付近案内図と書かれた概略図もあります。

 

三本の道が描かれていますが、一番左の道が琴平神社から上ってくるルート、真ん中が江戸巡礼古道となる約三百段の石段のルートです。この図でいうと、一番右に描かれているのが札所二十七番への道となります。

 

札所二十七番への江戸巡礼古道は、約三百段の石段を降りるのではなく、尾根道を歩いて行きます。

 

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札所二十七番への道を歩きだすと、すぐにみえてくるのが、鉄板の橋です。

 

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その橋を渡ろうとして振り返ると、小さな祠がありました。この付近は以前は修験道の修行の場所だったのでその名残でしょうか。

 

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札所二十七番の大渕寺までは現在、琴平ハイキングコースとなっているように起伏のあるハイキングコースです。

 

岩井堂からは2キロメートル近くあるので、まだ到着しないなぁと何度も思いながら歩きました。

 

札所二十七番までの道には護国観音が立っている場所があります。鎖が見えましたが、近道ルートではなく、少し遠まわりをして脇道から戻るようにして護国観音の前まで行くことにしました。

 

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小さな石仏なども見えてきて、遠回りでも石仏が見えるこちらのルートを使ってよかったなと思いました。すると大きな護国観音の姿が少しだけ木々に間から見えてきました。

 

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鎖場を通らないので岩場を回り込むようにして歩き、護国大観音像の矢印方向へ上っていきます。

 

なお、矢印の反対方向が札所二十七番への道になります。護国観音像の前に立ち寄った後には、この地点まで戻ることになります(護国観音のところに立ち寄らない人は、このまままっすぐ古道を歩きます)。

 

 

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昭和十年建立といわれる護国観音です。

 

高崎観音、大船観音と並ぶ関東三大観音の一つとも言われています。これら三つの観音様以外の大観音は歴史が浅いからなのだそうです。

 

ここは岩場の道ですが、護国観音像の真ん前に来ることができます。観音様の足元にも観音像らしき図(石版)が見えています。護国観音様が見ているのと同じ方向を眺めることができます。

 

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護国観音の場所は天気の良い日に行って、しばし遠くの山々をみておくといいですよ。

 

私も何度か行きましたが、護国観音像の前でお昼ごはんにして、山々を眺めながら食事しているハイカーの人をよく見ました。

 

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護国観音像を見たら、また元の道に戻ってしばらく歩いていくと「札所27番」と書いた看板が見えてきます。矢印の方向に進みます。

 

琴平ハイキングコースのほうの道案内は左右の矢印が書かれていますが、札所二十七番方面から来た人と札所二十六番から来た人と両者いるためでしょう。

 

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秩父札所はいろんなところで、岩肌を見る機会があります。札所二十七番の手前にもこのように立派な岩肌が見える場所があります。

 

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赤い帽子のお地蔵様が見えてくると二十七番大渕寺、特に観音堂はすぐ下に見えてきます。 

 

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お不動様や石仏も見えてくると札所二十七番が近いことがわかります。 

 

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観音堂の上のほうには、お不動様の小さな祠もあります。

 

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ここは、もうすでに札所二十七番の大渕寺の境内と言ってもいい場所になっています。山の斜面には梵字が書かれた石碑も見えてきました。ちなみに山の斜面には春になるとカタクリの花が咲きます。 

 

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札所二十七番、大渕寺の観音堂が見えてきました。以前は月影堂と呼ばれていた観音堂ですが、火災で当時の月影堂は残っていません。江戸時代にはもっと山の上のほうにあったようです。だからこそ、月影堂と呼ばれていたのでしょう。

 

江戸巡礼古道を通って来た人は、順番とおりに観音堂に立ち寄ってから納経所に行くようになっています。

 

 

札所二十五番から二十六番の納経所の円融寺まで

札所二十五番は場所も広く、手前にある観音堂でお参りするだけでなく、池を通って行く本堂や弁天堂、そして弁天池や後ろの砦跡も眺めてみるといいでしょう。

 

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納経が済んだら、納経所を出て山門に戻ります。

 

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また、二十五番と書いてある山門、仁王門のところに戻って右に曲がります。 

 

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まっすぐ行くと県道72号に当たります。

 

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県道の対面角に道しるべ石があります。「ひだり 廿六番道」と書いてあります。

道しるべ石の後ろに、なぜか納経所でよく見る小坊主の像が立っていました。

 

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その四つ角には、寺標のようなものもありました。道しるべ石の対面側です。ここからが札所二十五番の参道になるのか「秩父札所二十五番入口」と書かれた石柱です。

 

今の江戸巡礼古道を順に来たのなら帰り道に見ることになります。駅から来たのなら、行きに見えるのですが。

 

ここの四つ角を左に曲がり県道を歩きます。

 

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途中弁天茶屋というお店の先に、大きめの馬頭観音の石碑がありました。

 

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久那小学校前の交差点の手前には「巡礼道」と書かれた石碑がありました。「右 二十四番 左 二十五番」となっています。

 

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久那小学校前の交差点を右に入ります。この交差点には、大きな忠魂碑の石碑があってこれが目立ちます。

 

交差点を右に曲がってすぐのところに左に入る旧道が見えます。その旧道の手前に馬頭尊の石碑がありました。

 

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旧道を100mほど歩くと、もう少しで広めの道路に出るところという手前で、道が二又になり左に入る道がみえます。小さな道で、江戸巡礼古道として残しておいてくれているのだと思います。

 

その小さめの道の右側に道しるべ石があります。「左 二十六番道」となっています。そこを左の道に入ります。しばらく歩くと、さきほど見た広めの道路に合流します。

 

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広めの道路をまっすぐ歩いて行くと、右側に道しるべ石です。ここの道を挟んで対面には、戦国時代の高根城跡があったそうです。今はよくわかりませんでした。

 

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夏の終わりに再度通った時、本来の古道はこの道しるべ石の後ろに見える道だと知りました。

 

ただし、旧道は、ところどころ消滅していたり、民家の庭先を通ったりする道とのことです。

 

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この道しるべ石には左二十六番道と書かれてます。

 

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旧道(ところどころ途中で途切れたいるそうです)を歩くのもいいですが、新道はまっすぐの道で、見晴らしもよく遠くに武甲山も見えます。

 

特に、冬は空気も澄んでいて、遮る木々もなく、よく見えました。

 

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広めの道路をさらに歩くと、桑の木の手前に途中で右に入る畑道のような道があってその手前にも、道しるべ石です。

 

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「左 二十六番道」と書かれています。

 

ここからも巡礼道の旧道へと入る道で旧道と新道も分かれ道になっています。旧道は、新道とほぼ平行している道なのだそうです。

 

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ここから旧道の方へと行ってみることにしました。

 

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やはり途中で民家の庭先のようなところを通るようです。道の先が暗かったので、ここで引き返しました。

 

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先ほどの道しるべ石のところから続いている道はこのように道は途切れることなく続いていました。この民家のところまでは途切れていないようでした。

しかし、旧道の一部も見ることができたので、巡礼古道の新道へと引き返しました。

 

 

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さらに歩くと、道端に石垣がある場所が見え、そこの左に入る道の入口に「ひだり二十六ばん」の道しるべ石と「道祖神」の石碑があります。ここは変則的な四つ角になっています。

 

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その四つ角の道を挟んで対面に「みぎ二十六番」と書かれた道しるべ石です。

 

片方は、右が二十六番で、もう片方が左二十六番となっているので、他の場所にあったものがここに移動してきた石だ、と言われています。同じ場所なのに、指しているのが右だったり、左だったりするのです。

 

もしかしたら、先程少しだけ見た旧道にあった道しるべ石が移動してきたのかもしれません。

 

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「ひだり二十六番」の道しるべ石の文字はよく見えなかったのですが、こちらは確かに、「みぎ 二十六番」の文字が見えました。「心求」の文字も見えました。

 

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ここの四つ角もおそらく新道と旧道の交わるところと予想して、また旧道の方へと行ってみることにしました。こちらは比較的途切れていなくて、道がつながっているように思いました。


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この先は新道へ繋がりました。

 

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ここからは先も旧道があるようです。途切れる部分もあるそうですが、柳大橋まで行くとのこと。


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今来た道を振り返ってみました。道端には石が並んでいたので、おそらく旧道として残っていたのでしょう。また新道のほうを歩いて行くことにしました。

 

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新道は、柳大橋の直前で大きく右にカーブするところがあります。その手前、道の左手、カーブミラーの下にも道しるべ石です。


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向かって右の面に「右 廿六番道」、左の面には「左 廿五番道」となっていました。

 

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その道しるべ石の後ろも、道が残っているようですが、これは柳大橋へ向かう道とは別のように思いました。

 

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さらに新道を先に行くと大きく右に曲がり、そこを抜けると正面に柳大橋が見えます。

 

先程書いた旧道はこの柳大橋までつながり、柳大橋の下をくぐって荒川に降りていったそうです。柏木瀬の渡しで荒川を越えたのだとか。渡し場に柳の木があって柳の渡しとも呼ばれたそうです。

 

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しかし、現在の柳大橋の周りは護岸工事がされ、渡し場の跡もわかりません。

 

この写真に見えるどこかから荒川を渡って行ったのでしょう。柳大橋は車もほとんど通らず、眺めの良い橋でした。

 

柳大橋を渡った先は、埋立工事だとかで工事車両が多く止まっていました。埋立工事で道が整備されてしまっているので、現在、柳大橋のこのあたり一帯は巡礼古道が不明になっているそうです。

 

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柳大橋を渡ってからは、まっすぐ影森駅方向へ向かう道はなく、大きく遠回りになる道になっていました。

 

段丘上の道で坂道が続きます。この写真の時は、ちょうど日暮れになり、林を通る道だったので、柳大橋を渡った時のような明るさがなかったです。

 

林の中のような道を通り抜けると上には民家が見えてきました。

 

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上のほうに来て、大きく右にカーブしたところに道の左側にブロック塀に囲まれた場所がありました。

 

そこを振り返ってみたら、地元で「一本木地蔵」と呼ばれている地蔵尊の石碑がありました。

 

上ってきた場合、振り返ってみないとわからないですし、ブロック塀に囲まれていることもあって気づかないで通り過ぎしまうかもしれません。

 

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その地蔵尊の石碑の対面には「二十六番道」の道しるべ石がありました。こちらは、すぐにわかると思います。

 

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さらにまっすぐ歩いていくと、国道140号に出ます。その斜め前に影森小学校へ入る細い道があります。

 

上の写真は国道を渡った後に、今来た道を振り返ってみた写真です。細道の入口は斜め前にあることがわかるかと思います。

 

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斜めに入る細道を入っていくと、影森小学校に着きます。その手前に草に埋もれるようになっていてわかりにくいのですが、道しるべ石があります。

 

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「ひだり二十六番」と書かれた道しるべ石です。

 

ここを左に曲がります。影森小学校の脇を通り、県道209号に出ます。本来の道は、影森小学校の敷地を斜めに入る道だったそうです。今は小学校の敷地内なので入れませんが。県道に出たら、右に曲がりまっすぐ行って秩父鉄道の踏切を越えます。

 

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踏切を越えると、突き当りになり、T字路の正面には長福寺の墓所があります。用水路のような場所の横に「右 二十六番岩井堂道」と書かれた道しるべ石があります。ここを右に曲がってまっすぐ行きます。

 

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二つ目の角を左に曲がると、道の左側に以前の巡礼宿だったと言われる家が見え、その 対面のブロック塀に「札所26番奥の院」と「札所27番(大渕寺)影森駅」と矢印が書かれた看板があります。

 

以前は岩井堂の階段の途中に納経所があったので、江戸時代はこのまままっすぐ岩井堂へ向かいました。「札所26番奥の院」と書かれている方向です。

 

今は円融寺が納経所となっていますので、先に円融寺に行くことになります。現在は、岩井堂は円融寺の奥の院という位置づけなのでしょう。

 

ツアーなどで岩井堂まで行かない場合は円融寺の本堂だけで済ませるみたいです。

 

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その道案内の看板の隣に、供養塔のような石碑がありました。

 

この石碑の対面に巡礼宿だった場所から左に入る道があるので、そこを左に曲がります。

 

江戸巡礼古道ではないのですが、現在は円融寺が札所二十六番の納経所となるので、江戸時代は本来の道である岩井堂へと直進する道を直進せずに、ここで左に曲がって円融寺へと先に行くことにします。

 

本来なら観音堂で参拝してから納経という順番ですが、山道の途中にあるので先に納経を済ませます。

 

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まっすぐ行くと、先程は裏手の墓所を通った長福寺の寺標が見えてきます。

 

こちらが参道になります。その参道の両脇には大勢至菩薩の石碑や供養塔、石仏、お地蔵様が並んでいました。

 

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 庚申塚のようなものや、巳待塔もありました。

 

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さらにまっすぐ歩くと、札所二十六番の納経所である円融寺の寺標が見えてきます。その入口には、「秩父札所二十六番万松山円融寺」と書かれた古い道案内の柱と、延命地蔵尊の石碑がありました。 

 

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円融寺の本堂に向かって右に納経所があります。納経所の裏手には牡丹の花で知られる円融寺の庭があります。

 

私が行った時は本堂は建て替え中のため、円融寺の中に小さな観音堂があって、そこでお参りすることもできました(岩井堂まで行かない人たちは、いつもは本堂前で読経していたのだと思います)。

 

岩井堂へは300段以上の石段もあるので、登ることができない人のためのお参りの場所でもあるようです。もちろん、納経所は円融寺のところです。

 

 

札所二十四番から二十五番へ

札所二十四番は江戸時代は修験の寺だったそうです。

 

こちらの縁起は加賀の白山を勧請したのだとか。そのためなのか、白山観音とも呼ばれているそうです。神仏習合の修験だったためか、奥の院としてあったものがその後白山権現社とされ、明治元年に白山神社となったそうです。札所二十四番では白山神社の御朱印も取り扱っていました。

 

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 札所二十四番で参拝を済ませたら、札所二十四番の納経所の裏手に白山神社があるので、そちらも参拝するといいでしょう。以前あった場所からここに移動してきたばかりらしく建物がまだ新しいです。

 

 さて、札所二十四番から二十五番までは、来る時に登った百十六段の階段を下りたら、県道を来た方向にいったん戻る形になります。

 

県道の向こう側(右に)南無観世音菩薩の旗が立っている場所があるので、そこから住宅地の方向に入っていきます。

 

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入ってしばらくすると二又の道になります。左に行くと竹やぶが見えて荒川のほうに行く道になります。その分かれる場所に、昭和三年の標柱がありました。「左 二十四番及尾田蒔村方面」と書かれ「正面 久那村及ビ長若村方ニ至ル」となっています。

 

この標柱の前にも、何か刻まれた石がありました。


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標柱のこちらの面には「右瀧坂渡場ヲ経テ秩父町ニ至ル」となっています。ここから坂道になり、ゆるく右にカーブしているので、それに沿って歩いてきます。

 

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今度は左にカーブしているので道なりに歩きます。住宅地の中のくねくねした道ですが、道に沿って歩いていると途中で丹生大明神の祠が見えてきました。

 

この道とは別のものですが永源寺跡の石仏を再度見に行った時、近くの住宅地に土台が石詰みの立派な祠がありました。

 

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こちらは庚申塚ですが、地元の方々がきちんとお祀りしているのだなと思った次第です。

 

上の丹生大明神の祠も地元の人が守っていることがわかります。

 

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先程の祠を過ぎると、荒川も見えてきて川のそばを歩いていることがわかります。丹生大明神は水を抑えるための神様だったのでしょうか。


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荒川が見えたらしばらくすると、県道が見えてきます。県道の斜め左方向には山のほうへと入る道が見えてきます。

 

県道に出るすぐ手前には「右 柴原道 左 二十五番」の道しるべ石です。

 

右は柴原道と呼ばれていたようです。なお、これから進む道は江戸巡礼古道の「久那みち」と呼ばれていて、今までの道は「長尾根みち」です。

 

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県道を渡ってすぐの斜め前が江戸巡礼古道です。途中に南無観世音菩薩と書いた旗や、巡礼道の札がありますので、それに沿っていきます。

 

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埼玉県の歴史の道報告書には、ここで右に入ると書かれていました。この先に白山神社の参道があるとのことでした。

 

しかし現在は白山神社は新しくなって札所二十四番の裏手に移動しています。そのためなのか、報告書の時とは道が変更になったようでした。

 


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試しに、右に入ってみたのですが、途中で道が通れなくなっていました。

 

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白山神社への参道らしき跡もわかりませんでした。

 

今は白山神社は札所二十四番の法泉寺の裏手に移動してありますが、以前はこの右に入った道のそばに白山神社の参道があったとのことでした。参道のような道は結局わかりませんでした。

 

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元の江戸巡礼古道に戻りました。道なりに歩いていると桑畑の中の道になってきます。その途中にも「巡礼道」の札がかかっています。道は右にカーブしたり、左にカーブしたりしますが、「巡礼道」の札のとおりに歩いていきます。

 

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途中深い谷のような道になりますが、少し上るような形で歩いていきます。

 

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林の中のくねくねした道もありますが、とにかく前に進んでいきます。

 

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しばらくすると道の左側にコンクリートの高い壁が見えてきます。それに沿って歩いていると、前にトンネルのようなところが見えてきます。

 

トンネルを抜けると、秩父錦の販売所でしょうか。「酒つくりの森」という場所が見えてきます。ここまでが暗い道だったので、この酒つくり森の駐車場や建物が見えてくると安心できます。

 

県道209号に沿った道からは県道に出ます。右方向に県道を歩いてきます。県道209号の坂道を上っていきます。

 

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私が行った時は、ちょうど宅地を作るのか江戸巡礼古道の真後ろが工場中だったのですが、県道209号から左に入る道があることが見えます。

江戸巡礼古道の矢印の札を見失うことのないようにしましょう。途中でも「巡礼道」の札はありますが。

 

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巡礼道の隣にオレンジ色の囲いがあったのでわかりやすかったです。工事中でも古道を残しておいてくれているのですね。

 

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途中に「巡礼道」の札があるのでそれに従って歩いてきます。ただ、巡礼道の札が見えなかったのがこの付近でした。

 

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この道のままでいいのか少し不安になりましたが、それでもまっすぐ歩いていたら、曲がり角に江戸巡礼古道の案内板を見つけました。この道で正しかったようです。

 

「久那みち」と書かれています。25番寺の方向に曲がっていきますと、坂道になってきます。

 

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右に曲がってから県道209号に沿った道になります。途中左に曲がっていくと県道に沿ったまま、県道209号に出る道につながります。この写真のように江戸巡礼古道の札がかかっているのが見えます。この写真の札は、逆さまになっていますが。

 

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県道209号を歩いていくと、途中で、左から道が来ていることがわかります。その三叉のような場所があります。正面に江戸巡礼古道の案内板があります。この左に入る道の方向へ行くことがわかります。Uターンするようにして道に入り、また右にカーブしていきますが道なりに歩きます。

 

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三叉道のような場所で突き当りに出ます。正面には弁財天の石碑です。ここを右方向に歩きます。

 

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また、二又が見えてきます。正面のカーブミラーの下に矢印が書かかれた札がありますので、左の25番寺の方向に歩きます。

 

大きく左方向に行きます。右手に「民宿すぎな」が見える坂道を下ります。この付近は、民宿がいくつか固まってあります。

 

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民宿すぎなの周りを回るようにして、坂道を降りると、右側に説明書きが立っているのが見えてきます。今、下ってきた道が「巡礼坂」と呼ばれているようです。

 

本来の江戸巡礼古道とは違っていることの説明が書いてありました。

 

本来ならこの近くにある宝林院の裏手を通り、沢を越える道だったようです。しかし、その沢の両側がえぐり取られて崩壊してしまったとのこと。これでは通行不可というのも仕方ありません。

 

「巡礼坂というのは、その昔巡礼さんが多く往来したことからその名がある。近くに立つ馬頭尊がその名残りをわずかに残している」と書いてあるので、宝林院の裏手をほぼまっすぐ歩いてくると、そこからの道の突き当りにこの石碑の馬頭尊があったのでしょう。

 

やはり道しるべ石や馬頭尊、弁財天などの石碑は、巡礼の道の目印になっていたことがわかります。

 

以前の道は沢を渡るくらいの林の中の道だったのだと思います。馬頭尊前の道から宝林院の方向を見たのですが、今では木々が生い茂り、道らしいものもわかりませんでした。

 

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引き続き道を下っていくと旅館の「はまだ」の看板が見えます。その看板のすぐ下に江戸巡礼古道の道案内です。久那みちの25番寺の方向に進みます。

 

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「はまだ」のところで、右に曲がって道を下っていきます。このような井戸のようなものが右に見えてきます。さらに道を下っていきます。

 

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すると、T字路のような道になり、左手の道がヘアピンカーブのようになっていました。左に少しだけ行くと、江戸巡礼古道の案内板があって、25番寺の方向に進みます。ここからはつづら折りのような下り坂です。

 

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ヘアピンカーブのつづら折りを過ぎると、下の谷のほうへ行く道が金網に囲まれてあります。

 

そのまた先には、下へ降りていける階段があるのが見えます。

 

そこに江戸巡礼古道の案内板がありました。金網状の階段が設置されていて、金網の下が見えるようになっていました。この階段にも「巡礼道」の札がかかっていました。

 

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階段を降りて山道を歩いていきますと、金網の向こう側に木で作られた橋が見えてきます。

 

このあたりの沢は五百沢(いおさわ)と呼ばれている場所です。木の橋を渡ります。 

 

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沢を渡ると今度は上り坂になります。

 

車の通る音が聞こえたので音のしたほうを見ると、先程のヘアピンカーブのつづら折りのところから続いている舗装された道がこの山道のそばを通っているようでした。

 

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山道ですが、道はしっかりわかります。沢を渡ったすぐのところは急な上り坂でしたが、尾根道のような平たんな道になってきました。

 

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沢を渡ってすぐは急な上り坂でしたが、ここまで来ると、ゆるやかな下り坂で、竹やぶの間を通る道を歩きます。

 

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山道を抜けると住宅地に入ってきます。木々が茂る暗い道から道が明るくなりました。

 

舗装された道の手前には江戸巡礼古道の案内板があるので、25番寺の方向に進みます。

 

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住宅地のある道に出て左に少し行くと脇道入る場所があってそこに「25番札所寺」への手書きの立て札がありました。

 

その下には道しるべ石です。「みぎ廿五番」となっています。


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そこを右に曲がって入っていきますと、住宅地の中を通るけっこう細い道なのですが、江戸巡礼古道久那みちの札がかかっていました。古道が残されていたことがわかります。

 

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細い道を出て、左に曲がりまた右の道へ入ります。途中住宅に入る道もありますが、ほぼまっすぐの道を通ります。巡礼道の札に沿っていきます。

 

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くねくねした道ですが、 道なりに歩いていくと、前方に久那小学校が見えてきます。そのまま道に沿って歩いていきます。

 

これは久那小学校の校庭があるほうの道になります。久那小学校の校庭が見える道を歩いていくと、途中で学校の金網前、道の左側に道しるべ石があります。

 

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この道しるべ石ですが、最初見た時「右 二十五番」だけかと思ったら、脇の面にも書いてあってそちらには、「ひだり二十四ばん」となっていました。 

 

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久那小学校を回るようにして道を歩くと、二又になります。そこを右の方向に進みます。

 

田んぼが広がる場所に出ますが、田との境に、道しるべ石がありました。「みぎ二十五ばん」と書いてあります。

 

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水田と水田の間の農道を通りぬけ、住宅の間を通ると目の前に札所二十五番、久昌寺の山門が見えてきます。

 

山門の手前にはお地蔵様もありました。その横には「二十五番」と書かれた石柱が立っています。その石柱の向かって左には、「御手判寺」と書かれています。

 

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山門前にある石橋を渡り、山門を通りますが、山門の右側にも道があり、山門から入っても右側の道に続いています。石橋が建立された時のものと思われる「石橋建立供養塔」もありました。

 

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山門に向かって左の道をまっすぐ進みます。左に石詰みの壁がある道です。その先にあるのが観音堂です。

 

左側は切り立った崖のそばに立っている観音堂です。ジオパークとしても見どころの場所でしょう。

 

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切り立った崖の下に観音堂があるというのは、二十八番の橋立堂や三十一番の観音院も同じです。

 

他にも、二十六番の岩井堂や三十ニ番の法性寺も含めることができると思います。

 

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観音堂の裏手には大きな弁天池が広がっています。一面に氷が張った時の弁天池です。

 

この池が夏には蓮の花や睡蓮の花でいっぱいになります。 

 

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上の写真が夏の時。冬の氷で覆われた池とは夏の終り頃に行った時と、光景が違って見えます。

 

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彼岸花が少し咲きはじめていた時期だったので、盛夏の時なら、もっと古代蓮や睡蓮が咲いていたことでしょう。蓮は多くが花が終わり、実になっていました。

 

 

 

札所二十三番から二十四番へ

札所二十三番からは江戸巡礼古道となって長尾根みちを通ります。

 

二十二番が場所を移動したために新旧の二十二番からの「明治巡礼古道」と「江戸巡礼古道」に分かれたためにこの部分だけイレギュラーとなっています。

 

ということで、いつもの江戸巡礼古道です。

 

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納経所前の白梅は樹齢百五十年を超えるのだとか。参拝をすませて、札所二十三番を出ます。

 

春に訪れると花を楽しむことができますね。

  

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道を下り札所二十三番目の石柱のところで右に曲がります。埼玉県の歴史の道報告書では、その当時、札所二十三番から二十四番の道が不明と書かれていました。

 

桜久保沢から先のルートがわかったけれど、そこまでの道がわからなかったと。

 

道がわからなくなったというのは、おそらく秩父ミューズパークの開発があったからかと思います。二十三番音楽寺のすぐ隣は、秩父ミューズパークですから。しかし、今は江戸巡礼古道の地図や道に掲げてある札など見ますと、その後の調査で少しわかってきた部分があるようです。

 

まずは石柱のところを曲がってミューズパークの駐車場方面に歩きます。

 

 

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まずは公衆トイレが見えてきますので、そのまま駐車場を突き抜けます。車道に出ますので、道なりに歩いていきます。途中、江戸巡礼古道の地図が載っている案内板もあります。梅の木が右手に見える道を歩いていきます。ここはミューズパークの梅園となっているようです。

 

余談ですが、ミューズパークの桜が満開の時期だったので、少し寄り道をして桜を見ていたら坂の途中に馬頭尊の石碑を見つけました。余談はさておき、右に梅園の梅の木を見ながら、道に沿って坂を下って行きます。

 

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梅園の場所が終わりかけるところに梅園の駐車場があります。その駐車場の中を通ります。江戸巡礼古道はこのように2回、駐車場を通って行きます。2度目の梅園の駐車場は通り抜けるのではなく、途中で左に曲がって細道に入ります。

 

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駐車場の中を通ると、「南無観世音菩薩」と書いた旗が立っているところがあります。ここが細道へ入る入口です。このほか、道案内として、札所24番まで2500mの矢印と巡礼道のシールが貼ってあります。

 

駐車場をこのまま直進すると、せせらぎ広場へ行くようですが、江戸巡礼古道ですから緑の札の指す方向に入っていきます。

 

 

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梅園の駐車場裏にある細道です。駐車場を利用する人には、なぜこんなところに道があるのだろうと思うかもしれませんね。細道はしばらく歩くと、下のほうへと下る道になります。

 

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ダムのようなものが見えてくるので、これを見たら、左に曲がります。私は初めて通った時、間違えて道なりに「右」に進んでしまったのですが、「ダムのようなものを見たら左に行く」と納経所の人にも言われました。ここで道を間違えてしまう人が多いのだとかとおっしゃっていました。

 

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左に行って、さらに道を下っていきます。ここまで来ると江戸巡礼古道の利用者しかいませんね。ミューズパーク利用の人たちは通るのかしら?

 

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しばらくすると小川にかかる木の橋が見えてきます。 人が通っているのか、道はわかります。

 

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おそらくダムのように見える場所の周りを回るようにしてから札所二十四番方面に道が続いているようでした。

 

ダムのように見える場所で右方向に行ってに間違える人が多い、というのは、方向的には右方面に行くからかもしれません。ぐるりと遠回りをしているような感じがします。

 

途中の木立の幹のところにも「江戸巡礼古道 長尾根みち」の札がかかっているので、それを確かめながら歩いていきます。

 

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木々のところを抜けると、民家の庭先ではないかと思うような場所にでます。

 

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道案内の柱があるので、札所二十四番のほうに進みます。

 

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いったん車道のような場所に出ます。これは来た道を振り返ったところです。このように民家のすぐ前、庭先ではないかと思うような細道を通って車道に出るのです。

 

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車道のようなところに出る直前、左手に 馬頭観音の石碑があります。

 

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車道のような道の目の前に道案内の柱があって、「小鹿坂・巡礼みちハイキングコース」となっていてその下に「札所24番法泉寺」の矢印が見えます。

 

そのまた後ろの木に「巡礼道」の札がかかっているのが見えるように、この裏手の山道を下っていくのです。

 

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山道を下ると県道72号と平行して山寄りに走っている車道に出ます。出るところには「小鹿坂・巡礼みちハイキングコース」の案内の柱が立っています。

 

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その車道に出る手前には「二十二夜」石碑があります。道脇にひっそりと建っています。これは天保九年のものです。

 

埼玉県の歴史の道の報告書ではここのあたりの道が不明だったとされますが、おそらくその後に、このような石碑を追っていったことで江戸巡礼古道がわかってきたのではないかと思います。本当に山の中の道でした。

 

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山道から右に曲がって舗装された道、車も通る道を歩いていきます。しばらくすると、二又のところが見えてきます。この二又では、右を選ぶとは歩きの人しか通れません。車は通行止めになっていました。(○歩き×車はその意味)「巡礼道」ではなくこのまま舗装された道を歩きたい人は二又の左の道を歩けば、「札所24番光智山法泉寺」の方向に出ます。巡礼道は二又となっているうちの右へと進みます。

 

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途中まで舗装された道なので、車も通れそうに思うのですが、車には✕印が書かれていました。この舗装された道を上っていきます。途中で、「南無観世音菩薩」の旗が左側に見えてきます。 

 

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南無観世音菩薩の旗のところが、ここで左に入って山道の江戸巡礼古道へと入っていく場所です。そのすぐ手前には、弁財天の大きな石碑(宝暦13年のもの)が立っていました。昔はこれが山道は入る目印だったのでしょうか。

 

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南無観世音菩薩と書いた赤い旗のところを入って行きます。舗装された道から入ってすぐのところ、道の右側に石碑がありました。石碑をぐるっとみていくと、「左 別所ヲ経テ久那村ニ至ル」「正面 櫻渡ヲ経テ秩父町ニ至ル」と書いていました。

 

 

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舗装道路のほうから見たら矢印と「右 尾田蒔村」の文字が見えました。下がよくわからなかったのですが、尾田蒔村の中の地名だと思います。そこへ「至ル」と書いているようです。

 

この石碑だけでなく、写真の後ろに見えるように「江戸巡礼古道 24番寺へ」の札もかかっていますからすぐに入る場所はわかります。

 

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竹やぶを通って桜久保沢と呼ばれる沢のほうへと向かって行きます。「巡礼道」と書いてある札があるので、わかりやすく安心できます。

 

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竹やぶを抜けると、山の中の道のようなところに出てUターンするような形で道なりに進みます。巡礼道の札が下がっているのでわかるかと思います。

 

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途中、一旦Uターンするような道を出ると、そこは武甲山も見えるような開けた場所になっています。途中「巡礼道」の札がいくつか下がっていますので、それを見失わないようにして下りていきます。

 

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開けたところから下って行きます。靴が少し濡れるかもしれませんが、沢へと下って行く道です。この先が桜久保沢と呼ばれる場所なのだと思います。

 

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沢を渡って行く先には、南無観世音菩薩の旗が立っているので、そちらへと渡ります。山道ですが踏まれた跡があります。二十三番から二十四番へ行く人はわかります。

 

かえって逆打ちの人だと、反対側から来るほうが沢からの登り道が見つかりにくい印象です。とにかくわかりにくい場所では南無観世音菩薩の旗が目印です。

 

沢を渡ると今度は上り坂になります。その上り坂は「念仏坂」と呼ばれる場所で、その手前に説明書きがありました。「昭和初期まで旧別所村と旧寺尾村を結ぶ重要な生活道路で、この桜久保沢には、土橋が架かっていた。念仏坂とは、江戸の巡礼さん達が極楽往生を願いながら、念仏を唱えて、この坂を往来したことからその名がある」とのことです。

 

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念仏坂の脇には石積みされた場所があって、ここに木橋が架かっていたのかと思いました。

 

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念仏坂は急な坂ですが、道の左手にはロープもあるので、それにつかまれば上っていけます。ところどころに階段状のものもあります。

 

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春に通った時も枯れ葉がたくさんあったので、滑りやすいことには気をつけたほうがいいでしょう。

 

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右手に見えるのが念仏坂です。念仏坂を上りきったところに草に埋もれている「馬頭観音」の石碑があります。

 

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草むらのところにあるので、通り過ぎてしまいがちですが、薄い文字で「馬頭観世音」なのか、(もしくは「馬頭観音」なのかが)書いてあります。

 

この石碑まで来ると上のほうが明るくなっているので、山道の出口は近いと感じるでしょう。

 

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竹やぶの横は階段が作られていたので、それを上ります。ここを上ると見晴らしの良い場所に出ます。

 

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上に出ると開けた場所になっていて、時間によってはこの付近で飼っている馬に会えるかもしれません。

 

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この道からの武甲山の眺めがいいです。秩父ナビの地図にも「この辺眺望良好」と書かれていました。これぞ穴場スポットですね。

 

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少し歩くと途中の左側に道標があって「右 札所二十四番及久那村に通ズ」と「左 札所二十三番及尾田蒔村に通ズ」と書かれていました。

 

埼玉県の歴史の道報告書にも、この標柱のことが書かれていて、この標柱があることで、この道の先に行けば桜久保坂を越えて札所二十三番にいけることがわかったようです。先程の弁財天の大きな石碑から先の部分は道がわからなかったとされている部分です。報告書ができた後になって、ここの部分の道がわかったのではないかと思っています。

 

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標柱から歩いていくと舗装された道に出て住宅地の中のT字路に当たります。そこを左に行きますと、一軒置いてすぐのところに右への曲がり角があるのでそこを右に曲がります。曲がり角には南無観世音菩薩の旗があるので、それが目印になります。江戸巡礼古道の案内板もあります。

 

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 そこを右に入っていくと、太陽光発電のパネルがいくつかあるのが見えます。以前はここは畑のようになっていたそうですが、ここの左手に永源寺跡が残っています。私も初めて通った時は気づかずに通り過ぎてしまったくらいですが、太陽光発電パネルの間に細道があってその入口には石碑も残っていました。

 

 

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細道を奥まで行くと、永源寺の石仏などが残っています。柴窪山永源寺は、札所二十四番の納経所だったと言われる場所です。石仏の他にも馬頭観音の石碑などもありました。

 

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太陽光発電パネルの奥に、石仏が見えると思います。武甲山に気を取られると通り過ぎてしまいがちです。

 

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永源寺跡を過ぎると、林の中を通ります。暗い道になりますが、坂を下って林のようなところを通り抜けたら、右へ曲がります。廃品置き場のような場所を左に曲がります。道を下っていくと、ガードレールがある道が見えてきます。

 

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ここは少し高台の道になっていて、春は草木があって花を楽しめますし、高台になっているので、遠くに武甲山も見えました。

 

先までいきますと、T字路になっていて右に道なりに進むと山のほうにある秩父市の浄水場に行ってしまうので、V字のようにして下に行きました。

 

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V字に道を下りたところから、塞神の石碑があるのが見えました。ちなみに塞神の石碑は、札所四番へ行く途中の薬師堂の横にもありましたが、自分たちの地域に悪いもの(疫病や盗賊など)が入ってこないようにする魔除けのようなものです。

 

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以前通った時は、塞神の石碑のところから県道に下りましたが、本来の江戸巡礼古道はまっすぐ行ってから下へおります。

 

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この細道を下におります。右の道は浄水場への道です。この細道は、残しておいてくれたのだと感激するようなほど小さな道です。

 

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この細道をおりたら、すぐに道しるべ石があります。すぐに見える面は「右 二十三番」となっています。

 

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下におりて見える面には「左 二十四番 右 二十五番」となっています。

 

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ここから県道に下りる道が江戸巡礼古道です。

 

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県道に出るところに案内板があります。ここには県道も江戸巡礼古道となっていて、今下りてきた道も江戸巡礼古道になっています。

 

右に入っていく道は、上り坂になっていて、札所二十四番法泉寺の裏手から入るようになります。こちらの道は急な石段を上る道ではなく、札所二十四番に着く前に移転してきたという新しい白山神社の脇を通る道でした。

 

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以前の江戸巡礼古道は県道を越えてもう少し先の道(竹やぶのあるところ)を行ってから県道に戻るようにして札所二十四番へと行ったそうなのですが、道が畑の横を通るようになっていてわかりにくかったので、このまま県道を歩きます。

 

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県道に沿っていく江戸巡礼古道を歩きますと、100m程度歩くと右手に札所二十四番の入口が見えます。「札所廿四番」の大きな石碑も見えました。奥には「観世音」の石碑です。f:id:rumimarusr:20211011012736j:image

 

観世音の石碑には、「観世音」が中央に書いてあり、その左右に「右 廿四番入口 左 二十五番道」と書いてあります。

 

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入口を入っていくと、百十六段の石段があり、石段の右手にはお地蔵様がありました。観音堂までは、あと少し。

 

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石段に向かって左には、お地蔵様と石灯籠の間に道しるべ石です。

 

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この道しるべ石は心求・はまの石でした。元禄十五年三月十八日のもので、「みぎ 二十四番」となっていました。今までみた心求・はまの石の中では、文字が見えやすいものでした。