秩父札所の巡礼道を徒歩で道しるべ石や石仏とともに江戸巡礼古道

秩父三十四観音霊場を江戸時代に流行した時のように歩きで周り道の巡礼石を紹介

このサイトは秩父札所と札所の間にある巡礼道に関することを書いています。

巡礼道の石碑などについてだけですので、札所、すなわち寺院については別サイトを参照ください。

札所についてはこちら>>秩父三十四観音霊場、秩父札所の記事一覧

札所二十三番から二十四番へ

札所二十三番からは江戸巡礼古道となって長尾根みちを通ります。

 

二十二番が場所を移動したために新旧の二十二番からの「明治巡礼古道」と「江戸巡礼古道」に分かれたためにこの部分だけイレギュラーとなっています。

 

ということで、いつもの江戸巡礼古道です。

 

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納経所前の白梅は樹齢百五十年を超えるのだとか。参拝をすませて、札所二十三番を出ます。

 

春に訪れると花を楽しむことができますね。

  

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道を下り札所二十三番目の石柱のところで右に曲がります。埼玉県の歴史の道報告書では、その当時、札所二十三番から二十四番の道が不明と書かれていました。

 

桜久保沢から先のルートがわかったけれど、そこまでの道がわからなかったと。

 

道がわからなくなったというのは、おそらく秩父ミューズパークの開発があったからかと思います。二十三番音楽寺のすぐ隣は、秩父ミューズパークですから。しかし、今は江戸巡礼古道の地図や道に掲げてある札など見ますと、その後の調査で少しわかってきた部分があるようです。

 

まずは石柱のところを曲がってミューズパークの駐車場方面に歩きます。

 

 

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まずは公衆トイレが見えてきますので、そのまま駐車場を突き抜けます。車道に出ますので、道なりに歩いていきます。途中、江戸巡礼古道の地図が載っている案内板もあります。梅の木が右手に見える道を歩いていきます。ここはミューズパークの梅園となっているようです。

 

余談ですが、ミューズパークの桜が満開の時期だったので、少し寄り道をして桜を見ていたら坂の途中に馬頭尊の石碑を見つけました。余談はさておき、右に梅園の梅の木を見ながら、道に沿って坂を下って行きます。

 

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梅園の場所が終わりかけるところに梅園の駐車場があります。その駐車場の中を通ります。江戸巡礼古道はこのように2回、駐車場を通って行きます。2度目の梅園の駐車場は通り抜けるのではなく、途中で左に曲がって細道に入ります。

 

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駐車場の中を通ると、「南無観世音菩薩」と書いた旗が立っているところがあります。ここが細道へ入る入口です。このほか、道案内として、札所24番まで2500mの矢印と巡礼道のシールが貼ってあります。

 

駐車場をこのまま直進すると、せせらぎ広場へ行くようですが、江戸巡礼古道ですから緑の札の指す方向に入っていきます。

 

 

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梅園の駐車場裏にある細道です。駐車場を利用する人には、なぜこんなところに道があるのだろうと思うかもしれませんね。細道はしばらく歩くと、下のほうへと下る道になります。

 

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ダムのようなものが見えてくるので、これを見たら、左に曲がります。私は初めて通った時、間違えて道なりに「右」に進んでしまったのですが、「ダムのようなものを見たら左に行く」と納経所の人にも言われました。ここで道を間違えてしまう人が多いのだとかとおっしゃっていました。

 

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左に行って、さらに道を下っていきます。ここまで来ると江戸巡礼古道の利用者しかいませんね。ミューズパーク利用の人たちは通るのかしら?

 

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しばらくすると小川にかかる木の橋が見えてきます。 人が通っているのか、道はわかります。

 

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おそらくダムのように見える場所の周りを回るようにしてから札所二十四番方面に道が続いているようでした。

 

ダムのように見える場所で右方向に行ってに間違える人が多い、というのは、方向的には右方面に行くからかもしれません。ぐるりと遠回りをしているような感じがします。

 

途中の木立の幹のところにも「江戸巡礼古道 長尾根みち」の札がかかっているので、それを確かめながら歩いていきます。

 

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木々のところを抜けると、民家の庭先ではないかと思うような場所にでます。

 

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道案内の柱があるので、札所二十四番のほうに進みます。

 

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いったん車道のような場所に出ます。これは来た道を振り返ったところです。このように民家のすぐ前、庭先ではないかと思うような細道を通って車道に出るのです。

 

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車道のようなところに出る直前、左手に 馬頭観音の石碑があります。

 

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車道のような道の目の前に道案内の柱があって、「小鹿坂・巡礼みちハイキングコース」となっていてその下に「札所24番法泉寺」の矢印が見えます。

 

そのまた後ろの木に「巡礼道」の札がかかっているのが見えるように、この裏手の山道を下っていくのです。

 

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山道を下ると県道72号と平行して山寄りに走っている車道に出ます。出るところには「小鹿坂・巡礼みちハイキングコース」の案内の柱が立っています。

 

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その車道に出る手前には「二十二夜」石碑があります。道脇にひっそりと建っています。これは天保九年のものです。

 

埼玉県の歴史の道の報告書ではここのあたりの道が不明だったとされますが、おそらくその後に、このような石碑を追っていったことで江戸巡礼古道がわかってきたのではないかと思います。本当に山の中の道でした。

 

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山道から右に曲がって舗装された道、車も通る道を歩いていきます。しばらくすると、二又のところが見えてきます。この二又では、右を選ぶとは歩きの人しか通れません。車は通行止めになっていました。(○歩き×車はその意味)「巡礼道」ではなくこのまま舗装された道を歩きたい人は二又の左の道を歩けば、「札所24番光智山法泉寺」の方向に出ます。巡礼道は二又となっているうちの右へと進みます。

 

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途中まで舗装された道なので、車も通れそうに思うのですが、車には✕印が書かれていました。この舗装された道を上っていきます。途中で、「南無観世音菩薩」の旗が左側に見えてきます。 

 

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南無観世音菩薩の旗のところが、ここで左に入って山道の江戸巡礼古道へと入っていく場所です。そのすぐ手前には、弁財天の大きな石碑(宝暦13年のもの)が立っていました。昔はこれが山道は入る目印だったのでしょうか。

 

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南無観世音菩薩と書いた赤い旗のところを入って行きます。舗装された道から入ってすぐのところ、道の右側に石碑がありました。石碑をぐるっとみていくと、「左 別所ヲ経テ久那村ニ至ル」「正面 櫻渡ヲ経テ秩父町ニ至ル」と書いていました。

 

 

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舗装道路のほうから見たら矢印と「右 尾田蒔村」の文字が見えました。下がよくわからなかったのですが、尾田蒔村の中の地名だと思います。そこへ「至ル」と書いているようです。

 

この石碑だけでなく、写真の後ろに見えるように「江戸巡礼古道 24番寺へ」の札もかかっていますからすぐに入る場所はわかります。

 

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竹やぶを通って桜久保沢と呼ばれる沢のほうへと向かって行きます。「巡礼道」と書いてある札があるので、わかりやすく安心できます。

 

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竹やぶを抜けると、山の中の道のようなところに出てUターンするような形で道なりに進みます。巡礼道の札が下がっているのでわかるかと思います。

 

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途中、一旦Uターンするような道を出ると、そこは武甲山も見えるような開けた場所になっています。途中「巡礼道」の札がいくつか下がっていますので、それを見失わないようにして下りていきます。

 

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開けたところから下って行きます。靴が少し濡れるかもしれませんが、沢へと下って行く道です。この先が桜久保沢と呼ばれる場所なのだと思います。

 

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沢を渡って行く先には、南無観世音菩薩の旗が立っているので、そちらへと渡ります。山道ですが踏まれた跡があります。二十三番から二十四番へ行く人はわかります。

 

かえって逆打ちの人だと、反対側から来るほうが沢からの登り道が見つかりにくい印象です。とにかくわかりにくい場所では南無観世音菩薩の旗が目印です。

 

沢を渡ると今度は上り坂になります。その上り坂は「念仏坂」と呼ばれる場所で、その手前に説明書きがありました。「昭和初期まで旧別所村と旧寺尾村を結ぶ重要な生活道路で、この桜久保沢には、土橋が架かっていた。念仏坂とは、江戸の巡礼さん達が極楽往生を願いながら、念仏を唱えて、この坂を往来したことからその名がある」とのことです。

 

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念仏坂の脇には石積みされた場所があって、ここに木橋が架かっていたのかと思いました。

 

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念仏坂は急な坂ですが、道の左手にはロープもあるので、それにつかまれば上っていけます。ところどころに階段状のものもあります。

 

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春に通った時も枯れ葉がたくさんあったので、滑りやすいことには気をつけたほうがいいでしょう。

 

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右手に見えるのが念仏坂です。念仏坂を上りきったところに草に埋もれている「馬頭観音」の石碑があります。

 

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草むらのところにあるので、通り過ぎてしまいがちですが、薄い文字で「馬頭観世音」なのか、(もしくは「馬頭観音」なのかが)書いてあります。

 

この石碑まで来ると上のほうが明るくなっているので、山道の出口は近いと感じるでしょう。

 

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竹やぶの横は階段が作られていたので、それを上ります。ここを上ると見晴らしの良い場所に出ます。

 

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上に出ると開けた場所になっていて、時間によってはこの付近で飼っている馬に会えるかもしれません。

 

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この道からの武甲山の眺めがいいです。秩父ナビの地図にも「この辺眺望良好」と書かれていました。これぞ穴場スポットですね。

 

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少し歩くと途中の左側に道標があって「右 札所二十四番及久那村に通ズ」と「左 札所二十三番及尾田蒔村に通ズ」と書かれていました。

 

埼玉県の歴史の道報告書にも、この標柱のことが書かれていて、この標柱があることで、この道の先に行けば桜久保坂を越えて札所二十三番にいけることがわかったようです。先程の弁財天の大きな石碑から先の部分は道がわからなかったとされている部分です。報告書ができた後になって、ここの部分の道がわかったのではないかと思っています。

 

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標柱から歩いていくと舗装された道に出て住宅地の中のT字路に当たります。そこを左に行きますと、一軒置いてすぐのところに右への曲がり角があるのでそこを右に曲がります。曲がり角には南無観世音菩薩の旗があるので、それが目印になります。江戸巡礼古道の案内板もあります。

 

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 そこを右に入っていくと、太陽光発電のパネルがいくつかあるのが見えます。以前はここは畑のようになっていたそうですが、ここの左手に永源寺跡が残っています。私も初めて通った時は気づかずに通り過ぎてしまったくらいですが、太陽光発電パネルの間に細道があってその入口には石碑も残っていました。

 

 

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細道を奥まで行くと、永源寺の石仏などが残っています。柴窪山永源寺は、札所二十四番の納経所だったと言われる場所です。石仏の他にも馬頭観音の石碑などもありました。

 

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太陽光発電パネルの奥に、石仏が見えると思います。武甲山に気を取られると通り過ぎてしまいがちです。

 

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永源寺跡を過ぎると、林の中を通ります。暗い道になりますが、坂を下って林のようなところを通り抜けたら、右へ曲がります。廃品置き場のような場所を左に曲がります。道を下っていくと、ガードレールがある道が見えてきます。

 

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ここは少し高台の道になっていて、春は草木があって花を楽しめますし、高台になっているので、遠くに武甲山も見えました。

 

先までいきますと、T字路になっていて右に道なりに進むと山のほうにある秩父市の浄水場に行ってしまうので、V字のようにして下に行きました。

 

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V字に道を下りたところから、塞神の石碑があるのが見えました。ちなみに塞神の石碑は、札所四番へ行く途中の薬師堂の横にもありましたが、自分たちの地域に悪いもの(疫病や盗賊など)が入ってこないようにする魔除けのようなものです。

 

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以前通った時は、塞神の石碑のところから県道に下りましたが、本来の江戸巡礼古道はまっすぐ行ってから下へおります。

 

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この細道を下におります。右の道は浄水場への道です。この細道は、残しておいてくれたのだと感激するようなほど小さな道です。

 

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この細道をおりたら、すぐに道しるべ石があります。すぐに見える面は「右 二十三番」となっています。

 

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下におりて見える面には「左 二十四番 右 二十五番」となっています。

 

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ここから県道に下りる道が江戸巡礼古道です。

 

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県道に出るところに案内板があります。ここには県道も江戸巡礼古道となっていて、今下りてきた道も江戸巡礼古道になっています。

 

右に入っていく道は、上り坂になっていて、札所二十四番法泉寺の裏手から入るようになります。こちらの道は急な石段を上る道ではなく、札所二十四番に着く前に移転してきたという新しい白山神社の脇を通る道でした。

 

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以前の江戸巡礼古道は県道を越えてもう少し先の道(竹やぶのあるところ)を行ってから県道に戻るようにして札所二十四番へと行ったそうなのですが、道が畑の横を通るようになっていてわかりにくかったので、このまま県道を歩きます。

 

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県道に沿っていく江戸巡礼古道を歩きますと、100m程度歩くと右手に札所二十四番の入口が見えます。「札所廿四番」の大きな石碑も見えました。奥には「観世音」の石碑です。f:id:rumimarusr:20211011012736j:image

 

観世音の石碑には、「観世音」が中央に書いてあり、その左右に「右 廿四番入口 左 二十五番道」と書いてあります。

 

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入口を入っていくと、百十六段の石段があり、石段の右手にはお地蔵様がありました。観音堂までは、あと少し。

 

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石段に向かって左には、お地蔵様と石灯籠の間に道しるべ石です。

 

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この道しるべ石は心求・はまの石でした。元禄十五年三月十八日のもので、「みぎ 二十四番」となっていました。今までみた心求・はまの石の中では、文字が見えやすいものでした。