札所二十五番は場所も広く、手前にある観音堂でお参りするだけでなく、池を通って行く本堂や弁天堂、そして弁天池や後ろの砦跡も眺めてみるといいでしょう。
納経が済んだら、納経所を出て山門に戻ります。
また、二十五番と書いてある山門、仁王門のところに戻って右に曲がります。
まっすぐ行くと県道72号に当たります。
県道の対面角に道しるべ石があります。「ひだり 廿六番道」と書いてあります。
道しるべ石の後ろに、なぜか納経所でよく見る小坊主の像が立っていました。
その四つ角には、寺標のようなものもありました。道しるべ石の対面側です。ここからが札所二十五番の参道になるのか「秩父札所二十五番入口」と書かれた石柱です。
今の江戸巡礼古道を順に来たのなら帰り道に見ることになります。駅から来たのなら、行きに見えるのですが。
ここの四つ角を左に曲がり県道を歩きます。
途中弁天茶屋というお店の先に、大きめの馬頭観音の石碑がありました。
久那小学校前の交差点の手前には「巡礼道」と書かれた石碑がありました。「右 二十四番 左 二十五番」となっています。
久那小学校前の交差点を右に入ります。この交差点には、大きな忠魂碑の石碑があってこれが目立ちます。
交差点を右に曲がってすぐのところに左に入る旧道が見えます。その旧道の手前に馬頭尊の石碑がありました。
旧道を100mほど歩くと、もう少しで広めの道路に出るところという手前で、道が二又になり左に入る道がみえます。小さな道で、江戸巡礼古道として残しておいてくれているのだと思います。
その小さめの道の右側に道しるべ石があります。「左 二十六番道」となっています。そこを左の道に入ります。しばらく歩くと、さきほど見た広めの道路に合流します。
広めの道路をまっすぐ歩いて行くと、右側に道しるべ石です。ここの道を挟んで対面には、戦国時代の高根城跡があったそうです。今はよくわかりませんでした。
夏の終わりに再度通った時、本来の古道はこの道しるべ石の後ろに見える道だと知りました。
ただし、旧道は、ところどころ消滅していたり、民家の庭先を通ったりする道とのことです。
この道しるべ石には左二十六番道と書かれてます。
旧道(ところどころ途中で途切れたいるそうです)を歩くのもいいですが、新道はまっすぐの道で、見晴らしもよく遠くに武甲山も見えます。
特に、冬は空気も澄んでいて、遮る木々もなく、よく見えました。
広めの道路をさらに歩くと、桑の木の手前に途中で右に入る畑道のような道があってその手前にも、道しるべ石です。
「左 二十六番道」と書かれています。
ここからも巡礼道の旧道へと入る道で旧道と新道も分かれ道になっています。旧道は、新道とほぼ平行している道なのだそうです。
ここから旧道の方へと行ってみることにしました。
やはり途中で民家の庭先のようなところを通るようです。道の先が暗かったので、ここで引き返しました。
先ほどの道しるべ石のところから続いている道はこのように道は途切れることなく続いていました。この民家のところまでは途切れていないようでした。
しかし、旧道の一部も見ることができたので、巡礼古道の新道へと引き返しました。
さらに歩くと、道端に石垣がある場所が見え、そこの左に入る道の入口に「ひだり二十六ばん」の道しるべ石と「道祖神」の石碑があります。ここは変則的な四つ角になっています。
その四つ角の道を挟んで対面に「みぎ二十六番」と書かれた道しるべ石です。
片方は、右が二十六番で、もう片方が左二十六番となっているので、他の場所にあったものがここに移動してきた石だ、と言われています。同じ場所なのに、指しているのが右だったり、左だったりするのです。
もしかしたら、先程少しだけ見た旧道にあった道しるべ石が移動してきたのかもしれません。
「ひだり二十六番」の道しるべ石の文字はよく見えなかったのですが、こちらは確かに、「みぎ 二十六番」の文字が見えました。「心求」の文字も見えました。
ここの四つ角もおそらく新道と旧道の交わるところと予想して、また旧道の方へと行ってみることにしました。こちらは比較的途切れていなくて、道がつながっているように思いました。
この先は新道へ繋がりました。
ここからは先も旧道があるようです。途切れる部分もあるそうですが、柳大橋まで行くとのこと。
今来た道を振り返ってみました。道端には石が並んでいたので、おそらく旧道として残っていたのでしょう。また新道のほうを歩いて行くことにしました。
新道は、柳大橋の直前で大きく右にカーブするところがあります。その手前、道の左手、カーブミラーの下にも道しるべ石です。
向かって右の面に「右 廿六番道」、左の面には「左 廿五番道」となっていました。
その道しるべ石の後ろも、道が残っているようですが、これは柳大橋へ向かう道とは別のように思いました。
さらに新道を先に行くと大きく右に曲がり、そこを抜けると正面に柳大橋が見えます。
先程書いた旧道はこの柳大橋までつながり、柳大橋の下をくぐって荒川に降りていったそうです。柏木瀬の渡しで荒川を越えたのだとか。渡し場に柳の木があって柳の渡しとも呼ばれたそうです。
しかし、現在の柳大橋の周りは護岸工事がされ、渡し場の跡もわかりません。
この写真に見えるどこかから荒川を渡って行ったのでしょう。柳大橋は車もほとんど通らず、眺めの良い橋でした。
柳大橋を渡った先は、埋立工事だとかで工事車両が多く止まっていました。埋立工事で道が整備されてしまっているので、現在、柳大橋のこのあたり一帯は巡礼古道が不明になっているそうです。
柳大橋を渡ってからは、まっすぐ影森駅方向へ向かう道はなく、大きく遠回りになる道になっていました。
段丘上の道で坂道が続きます。この写真の時は、ちょうど日暮れになり、林を通る道だったので、柳大橋を渡った時のような明るさがなかったです。
林の中のような道を通り抜けると上には民家が見えてきました。
上のほうに来て、大きく右にカーブしたところに道の左側にブロック塀に囲まれた場所がありました。
そこを振り返ってみたら、地元で「一本木地蔵」と呼ばれている地蔵尊の石碑がありました。
上ってきた場合、振り返ってみないとわからないですし、ブロック塀に囲まれていることもあって気づかないで通り過ぎしまうかもしれません。
その地蔵尊の石碑の対面には「二十六番道」の道しるべ石がありました。こちらは、すぐにわかると思います。
さらにまっすぐ歩いていくと、国道140号に出ます。その斜め前に影森小学校へ入る細い道があります。
上の写真は国道を渡った後に、今来た道を振り返ってみた写真です。細道の入口は斜め前にあることがわかるかと思います。
斜めに入る細道を入っていくと、影森小学校に着きます。その手前に草に埋もれるようになっていてわかりにくいのですが、道しるべ石があります。
「ひだり二十六番」と書かれた道しるべ石です。
ここを左に曲がります。影森小学校の脇を通り、県道209号に出ます。本来の道は、影森小学校の敷地を斜めに入る道だったそうです。今は小学校の敷地内なので入れませんが。県道に出たら、右に曲がりまっすぐ行って秩父鉄道の踏切を越えます。
踏切を越えると、突き当りになり、T字路の正面には長福寺の墓所があります。用水路のような場所の横に「右 二十六番岩井堂道」と書かれた道しるべ石があります。ここを右に曲がってまっすぐ行きます。
二つ目の角を左に曲がると、道の左側に以前の巡礼宿だったと言われる家が見え、その 対面のブロック塀に「札所26番奥の院」と「札所27番(大渕寺)影森駅」と矢印が書かれた看板があります。
以前は岩井堂の階段の途中に納経所があったので、江戸時代はこのまままっすぐ岩井堂へ向かいました。「札所26番奥の院」と書かれている方向です。
今は円融寺が納経所となっていますので、先に円融寺に行くことになります。現在は、岩井堂は円融寺の奥の院という位置づけなのでしょう。
ツアーなどで岩井堂まで行かない場合は円融寺の本堂だけで済ませるみたいです。
その道案内の看板の隣に、供養塔のような石碑がありました。
この石碑の対面に巡礼宿だった場所から左に入る道があるので、そこを左に曲がります。
江戸巡礼古道ではないのですが、現在は円融寺が札所二十六番の納経所となるので、江戸時代は本来の道である岩井堂へと直進する道を直進せずに、ここで左に曲がって円融寺へと先に行くことにします。
本来なら観音堂で参拝してから納経という順番ですが、山道の途中にあるので先に納経を済ませます。
まっすぐ行くと、先程は裏手の墓所を通った長福寺の寺標が見えてきます。
こちらが参道になります。その参道の両脇には大勢至菩薩の石碑や供養塔、石仏、お地蔵様が並んでいました。
庚申塚のようなものや、巳待塔もありました。
さらにまっすぐ歩くと、札所二十六番の納経所である円融寺の寺標が見えてきます。その入口には、「秩父札所二十六番万松山円融寺」と書かれた古い道案内の柱と、延命地蔵尊の石碑がありました。
円融寺の本堂に向かって右に納経所があります。納経所の裏手には牡丹の花で知られる円融寺の庭があります。
私が行った時は本堂は建て替え中のため、円融寺の中に小さな観音堂があって、そこでお参りすることもできました(岩井堂まで行かない人たちは、いつもは本堂前で読経していたのだと思います)。
岩井堂へは300段以上の石段もあるので、登ることができない人のためのお参りの場所でもあるようです。もちろん、納経所は円融寺のところです。