秩父市内、とくに秩父神社付近のあたりは、札所と札所の間も距離が短くてすぐに次の札所に到着できて次々と参拝できます。
しかし、他のところでは多く見られた道しるべ石や石柱などが移動してしまったり、無くなってしまっているそうです。昔ながらの古道らしさが失われてしまっている場所も多いのだとか。
お詣りを済ませて次の札所十五番へと向います。観音堂を出て左に行き、数メートル歩いて、札所十四番の駐車場の矢印がある方へと歩いていきます。納経所の裏手に駐車場があります。駐車場のところの四つ角まで行くと、右に入る細い道があります。そばに「江戸巡礼古道」の札もかかっているのでわかるかと思います。
ここにも見えますが、車は入れないほどの細い道をまっすぐに歩いていきます。四つ角があってその先はさらに細い路地のような道になります。細い路地なのですが、江戸巡礼古道という雰囲気は感じました。
路地から出ても、それでもまっすぐ歩いていくと、左手に爪龍寺の寺標と庚申尊のお堂が見えてきます。
爪龍寺の寺標の横には六地蔵もあり、入口に「不許葷酒入門」の石碑です。そこは爪龍寺の参道のようでした。
爪龍寺と庚申尊のお堂の前を数メートル歩くと、目の前に「内田医院」の看板があって、その四つ角を右に曲がります。
右に曲がってから直進していくと、また県道73号にあたります。この県道を渡って、右斜めにある石橋スポーツのお店と本町知々夫ブランド館の間の道をまっすぐに入っていきます。
ここまでの間に道しるべ石のひとつくらいあっても良さそうですが。
さらにまっすぐ歩くと「番場町公会堂」の看板が見えてきます。その脇を通ってさらに道なりにまっすぐ歩きます。
ただし、「秩父ナビ」のサイトの地図では、番場町公会堂まで行かないで、そのすぐ手前で左に曲がって最初の四つ角を右に曲がってまっすぐ行くルートが書かれていました。
しかし、埼玉県の「歴史の道報告書」では、番場町公会堂の脇を通って、秩父神社の参道に出るとあったので、このまま、まっすぐ歩くルートで行きました。番場町公会堂の脇を通って道なりに行くのですが、けっこうくねくねした道です。
石畳風にになっている秩父神社の参道に出たら、左に曲がります。
左に曲がってから秩父神社の参道を歩いて行くと、右手に「五葉山少林寺」の寺標が見えるので、ここが入口なのだとわかります。寺標の側面には「秩父札所十五番納経所」と書かれていました。
少林寺の参道ではあるのですが、その前には、秩父鉄道の線路があります。踏切を渡って数メートル先が札所十五番少林寺です。
石段の右脇に古い寺標「五葉山少林寺」「秩父札所十五番納経所」となっています。「五葉山」と「母巣山」の山号については後ほど書きます。
その奥には、「秩父事変殉職警官墓所入口」の石碑があります。境内に山縣有朋の追悼の「山縣有朋篆刻碑」もあります。
警官のお墓はここにあるのですが、殉職した場所にも行ったことがあります。そこにも供養塔らしきものが立っていました。青木興市巡査の殉職した場所で、皆野町大渕にありました。もう一名の方は吉田地区の阿熊が殉職した場所になるそうです。
紅葉の時期の境内です。観音堂の右手には、秩父半僧坊大権現社もあります。
札所の観音像は秩父妙見社の神宮寺である蔵福寺に安置されていたので、秩父札所ができた当初の番付には「二番蔵福寺」と書かれていました。この蔵福寺は、神仏分離令によって廃寺となっています。一方、五葉山少林寺は『新編武蔵風土紀稿』に「臨済宗建長寺派、本尊達磨」と書かれていました(お正月には少林寺で達磨が売られているのをみました)。
札所の観音像を近くの少林寺に安置することが、時の役所によって認められ、「母巣山少林寺」として、札所十五番を引き継ぐことになったそうです。
札所の御詠歌にも「みどり子のははその森の蔵福寺 ちちもろともにちかひもらすな」とあって、「ははその森」や「蔵福寺」の文字が見えます。
札所十五番は「母巣山 少林寺」となり、 蔵福寺は「母巣山 蔵福寺」だったことから、「母巣山」の山号と寺名の「少林寺」の合体として引き継いだのかと。
そして、参道の寺標にある「五葉山」としての少林寺は、札所十五番の納経所としての位置づけなのかなと思いました。
余談ですが、札所十三番と札所十五番の間に位置する場所に、スーパーのベルク東町店があります。その脇のお蕎麦屋さん「大むら本店」との間に墓所があって、そこが「五葉山少林寺」の跡地なのだと言われています。その入口には、少林寺で見かけた「三つ鱗」の紋がありました。