秩父札所の巡礼道を徒歩で道しるべ石や石仏とともに江戸巡礼古道

秩父三十四観音霊場を江戸時代に流行した時のように歩きで周り道の巡礼石を紹介

このサイトは秩父札所と札所の間にある巡礼道に関することを書いています。

巡礼道の石碑などについてだけですので、札所、すなわち寺院については別サイトを参照ください。

札所についてはこちら>>秩父三十四観音霊場、秩父札所の記事一覧

札所二十二番から二十三番へ明治巡礼古道と江戸巡礼古道の2つルートあり

札所二十三番へは、札所二十二番へ行った時と同じく、札所二十二番の跡地を通る江戸巡礼古道と、現在の札所二十二番を通る明治巡礼古道がありますので、「古道」と言っても2つのルートが存在します。

 

まずは現在の札所がある二十二番から二十三番への道である明治巡礼古道についてです。

参拝を終えたら、もと来た道を戻ります。

 

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来た時に見た道しるべ石や太陽光発電パネルがある場所まで戻ります。そこまで戻れば、「巡礼みち 23番」 の矢印が見えてきます。

 

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この前にも書きましたが、この付近は城跡になっていて堀などが残されています。この先の明治巡礼古道を歩いていても城跡がわかります。

 

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墓所と太陽光発電の間の道を歩いていきます。

 

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童子堂の納経所で聞いたら、子育地蔵の立っているあたりが永田城跡なのだとか。室町時代の城館となります。

 

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道なりに歩いていくと、子育地蔵尊の祠の裏側が見えます。こんもりとした盛り土の山が土塁なのだそうで、その上にあります。

 

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お地蔵様が立っている側とは反対側も山のようになっていて、そこも土塁となっているようでした。城跡という雰囲気です。

 

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今歩いて来た道を振り返って写真に撮りました。この子育地蔵堂を回り込むようにして道は右に曲がっているので道なりに歩いていきます。

 

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道なりに歩き、堀のそばまで来たら堀と平行に歩いていきます。

 

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堀がある側と反対側は遠くに武甲山が見えます。写真では木に隠れてしまっていますが、秩父ハープ橋も見えます。

 

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道沿いには、石垣も多くこれが城跡の遺跡なのかと思いました。

 

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県道に出る手前の道の左側に案内図らしきもの(おそらく秩父市が設置)があったみたいですが、中身が無くなっていました。この先にあったと言われていた「中山みち」が消されているようです。

 

その下には道しるべ石です。「左 廿二番道」と書かれ、比較的新しいものに感じました。 

 

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県道へは斜めに入るようにして進みます。ここの出口にも入口と同じく案内板です。23番から来た逆打ちの人のためか「巡礼みち 22番」となっています。

 

以前見た地図でも、札所十九番にあった看板に書いてある地図でも、明治巡礼古道(中山みち、または、小鹿坂巡礼道となっていた)は、このまま真っ直ぐ歩いて坂道を上り、長尾根道を歩いてきた「江戸巡礼古道」と合流する、となっていました。中山みちについては、後で書きます。

 

この写真でも案内板が見えますが、県道を渡った先のまっすぐの道(中山みち?)ではなく、もう少し県道を歩くと、「巡礼みち ハイキングコース 23番 音楽寺」の案内板が見えました。矢印の方向へ歩いて行きます。

 

 

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しばらく県道を歩くと、四つ角が見えて右方向に細い道が見えました。巡礼道は右への道ですが、左へ曲がる道は武之鼻橋へつながる道の四つ角です。

武の鼻橋については後ほど書きます。

 

右方向へ入る細い道は車は通れないのですが、「ハイキングコース」と書いているように、歩行者は通れます。こちらは「中山みち」ではなく、「巡礼みち」という呼び名のようです。車の場合はこのまま県道を走るしかありません。

 

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途中、民家の間を抜けるような道が左にありますが、まっすぐ歩いていきますと、「巡礼みち 23番」の案内板が見えてきます。ここまでは比較的広い道ですが、石碑からは細い山道のようになってきます。これは確かに、この先は車の通り抜けはできない道です。

 

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舗装されてはいるのですが、細道です。枯れ葉も多く落ちていました。

 

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山道のようなところを抜けると、秩父ミューズパークへの車道に出ます。この道はつづら折りになっている道です。

 

この車道へ出るところにも案内板があって、上ってきた道の方向にも矢印があって「巡礼みち 22番」と書いてありました。下っていく人は22番への道です。

 

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車道は秩父ミューズパークへ向かう道だからか、車の往来が多かったです。車道に出たら斜め左の方向の対面にいつもの「巡礼道」の札を見つけました。こちらを歩いて行くことになります。

 

ここには、秩父駅の方向を示す矢印の案内板と、坂を上っていく「巡礼みち 23番」と、私が今やって来た道を示す「巡礼みち 22番」の札もありますので、自分が行くべき方向に進んで行きます。ここでは三方向の矢印があります。

 

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この坂道は、最初はなんてことないようにみえますが、勾配がきつい上り坂になります。余裕があれば、振り返って景色を眺めるといい道なのです。秩父ハープ橋はもちろん、秩父市内や武甲山も見えて見晴らしの良い場所です。

 

しかし本当に坂がきついです。いったん、また車道に出ますが、また歩行者用の上り坂の道に入ります。右側は山のようになっていますが、左側はミューズパークだと思うのですが、梅の木やミモザの木が整備されて植えてありました。途中には、紫陽花らしき株もありました。

 

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ところどころに音楽寺への矢印が書かれた案内板がありますので、坂をひたすら上っていきますと、札所二十三番の音楽寺に到着です。

 

これが今ある札所二十二番から明治巡礼古道(途中は巡礼ハイキングコースと書かれてましたが)を使った場合の札所二十三番の音楽寺まで行った光景です。

 

余談なのですが、先程の子育地蔵のところから永田城跡がある道を抜けて県道を渡ったまっすぐ先の明治巡礼古道の「中山みち」(もしくは小鹿坂巡礼道)は、今もあるのだろうか?と思って行ってみることにしました。

 

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さきほどは県道にそって、もう少し先まで歩いてから山のほうへと向かって行きました。

 

「以前の地図はまっすぐ山のほうへ」と書かれていたのに、なぜか今はもう少し県道を歩いてから山のほうに向かっています。ハイキングコースという道ではなかったのです。

 

そこで明治巡礼古道の「中山みち」はなくなってしまったのか、それとも少し残っているのかと思ったわけです。

 

札所二十二番童子堂へ行く途中でも堀が見えましたが、子育地蔵の周りも堀あって用水路のような小川のようになっていました。その用水路らしき小川が県道を渡った先にも続いていました。

 

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用水路のような小川に沿って道があったのですが、途中から山のほうに向かいます。右手が廃品置き場のような場所があってその先に道が続いていました。

 

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少し広場のような場所があったのですが、この先は通行止めになっていました。徒歩なら入れるのかもしれませんが、道がわからなかったです。

 

石碑がいくつか残っていたので、ここの平場のようなところが二十二番への道のところで書いた、童子堂の別当だったとされる栄福寺(永福寺)の跡地ではないかなと思いました。勝手な想像ですが。

 

後日、他の人のブログを見たら、山の方から下りてきたら(長尾根みち)、廃品置き場のところに出たとあったので、以前は、もっと手前で左に曲がる道があったようでした。今も残っているのかは不明です。

 

中山みちについては、案内板もなくなっていました。札所二十番の時のように、がけ崩れか、何かあって道が消えてしまったのかもしれません。台風の被害がひどい時以降なのかもしれません。せめて跡でも残しておいてくれたらなと思いました。

 

 

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さて、余談はもう一つです。

 

私が参考にしている江戸時代のガイドブックである『秩父順礼独案内記』によると、札所二十三番は小鹿坂と呼ばれていて、二十三番へは麓の川を渡る方法もあったことや舟があること、「武の鼻」という名前も載っていました。

その「武の鼻」ですが、今は武の鼻橋として知られています。

 

江戸時代から「武の鼻」の存在は知られていたのです。二十一番から明治巡礼古道を通って二十二番へ行く道の途中にも石柱に「武ノ鼻」の文字が書かれてました。

 

秩父市の江戸巡礼古道コースにも紹介されていたのですが、札所十六番から武の鼻橋を経て、二十二番に行き、二十三番、二十四番、二十五番へと続く道も紹介されていました。

 

そこで二十二番童子堂の山門前のお地蔵様のところからの武の鼻橋へ道も紹介したいと思います。ただし、二十二番から十六番へという戻る形でのご紹介になります。

 

童子堂へは左に曲がって山門に入りますが、そのまま直進します。

 

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突き当りを左方向に行くと、下へ降りる道が見えてきます。くねくねとした山道のようですが、開けた明るい道です。

 

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いったん車道に出ますが、車道を渡り、さらに下へと降りていきます。車道を渡る時、左方向をみたら、墓所と石碑がありました。下の道(車道)が上からでも見えるのでそのまま下ります。

 

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道の脇には用水路のような石垣がありました。 この用水路に沿って下りていきます。

 

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車道のところまで来たら、「巡礼道」の案内板がありました。案内板もあることから、やはり、ここから二十二番へ上っていく人もいるようです。

 

車道に下りたら、右に進みます。秩父ハープ橋も見えるのでわかりやすいです。

 

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ただ、札所十六番の方面から来た人はこの近くが二又の道になっているので、左の道を選びます。この道の少し先左側に先程の「巡礼道」の札があるので見つけにくいかもしれません。

 

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車道に出てからは、ハープ橋を目印にして歩けばいいだけです。

 

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ハープ橋の下に見えるのが武の鼻橋です。武の鼻橋は車両の場合、通行に重量制限があります。

 

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「武之鼻橋」(「之」の字のほう)と書かれています。こちらは古い橋なのでしょうか。2トン以上の車は通れないのが武の鼻橋です。

 

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崩し文字で「たけのはなはし」と書かれているようです。コンクリートの橋だったのでそれほど古さは感じませんでした。武甲山も前に見えます。

 

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ハープ橋を通るよりも景色を楽しめる印象です。

 

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こちらが武の鼻橋の全体です。

 

車で通るとなるとヘアピンカーブのように曲がりながら行くので、遠回りになりそうでした。ここを通って上がっていけば、先ほど書いた今の巡礼道(中山みちではなく)「巡礼みち ハイキングコース」へ入る四つ角のところまで行けます。

 

ただし、車の場合はハイキングコースは通れず、ミューズパークの方へ行くことになりますが。

 

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橋を渡ったら、その先には御嶽教秩父教会と秩父御嶽山里宮がありました。ここから先は古道でもないので、写真は省略しますが、スーパーベルクが入る大きなショッピングモールを目指していけば、その裏手に札所十六番があります。

 

 以上が明治巡礼古道(中山みちの一部も含む)と十六番から二十二番への道もあった「武の鼻橋」についてです。

 

【江戸巡礼古道】

では、旧二十二番の童子堂跡地からの江戸巡礼古道についてです。

 

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まずは童子堂跡地から、行く時にみた「峠のような平場」に戻ります。

 

一番奥の道に入っていきます。平場のところに来れば立て札があります。こちらは江戸巡礼古道ですね。この矢印が指す23番寺のほうへ歩きます。

 

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平場から少し歩くと延命地蔵尊が見えます。

 

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すぐに山道になります。

 

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山道を過ぎるとすぐに切通しの道に入ります。

 

V字になってえぐられた形になっています。

 

枯れ葉が上に覆いかぶさっているので、一見すると、わかりにくいのですが、足を入れるとぐぐっと下に沈みます。V字の深さは見た目よりも深い印象でした。

 

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途中に倒木などもあって歩くのにけっこう時間も取られます。この先には道の両脇に竹やぶがあって、たまに竹が覆い被さるようにして倒れていました。

 

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V字の道から平たい道になりますが、枯れ葉は多いです。季節によっては虫や蛇なども出てきそうな場所です。

 

私が通ったのは12月でしたが、そのうち道の先が明るくなっていて、出口のような感じがしました。それまでは暗い道も多いところなのです。

 

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やっと切り通しの道から林の中のハイキングコースのような道になりました。

 

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そこから上っていくと、周りが急に明るくなって尾根道に入ったことがわかります。

 

ここを歩くと「長尾根みち」と呼ばれていることがわかるでしょう。ここまで来れば古道らしさを味わえる道になります。それまでは歩くのが困難な道でしたから。枯れ葉の中をずぶずぶ歩くような道です。時間もかかりました。

 

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いつもの「巡礼道」の札が木にかかっているのが見えるので、間違えることはないでしょう。

 

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案内板にも「長尾根みち」と書かれています。江戸巡礼古道の23番寺のほうへ歩きます。

 

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道が広がった場所もあって、メープルの森の看板がありました。NPO法人がメープルを植えているようでした。

 

メープルですから、カエデですね。西武秩父駅の売店でカエデの樹液を瓶に詰めて売っていたのを飲んだことがあります。樹液は煮詰めるとメープルシロップになるのですが、煮詰める前は、ほんのり甘さを感じる程度の水という印象でした。

 

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鹿が木の葉を食べてしまうのを防ぐための網のようです。遠くに見えるのは武甲山です。長尾根みちもここまで来れば、秩父市内の街並みを見下ろして、いい眺めを楽しめます。ハープ橋も見えます。

 

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手作りのような注意書きです。夏は蜂にも気をつけたほうがいいようです。

 

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今度は杉木立の間を歩きます。先のほうに屋根が見えてきます。

 

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石仏が並んでいるところに出ます。この石仏はお地蔵様のように見えますが、秩父札所を開設した十三権者の石仏なのです。秩父札所は1234年、十三人の権者が開創したと伝えられます。

 

看板には「十三人の権者が秩父札所を開設したときに、この地の松風の音を聞き、菩薩の音楽と感じたので山号を松風山、寺名を音楽寺としたのである」と書いてあります。ここは桜の下に石仏が並んでいます。

 

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桜の時の光景です。桜の時期は本当におすすめです。

 

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十三権者の石仏の後と前に道があります。裏手となる後の道を通って小鹿坂峠に出ます。

 

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小鹿坂峠では五方向から道が通っていますが、前の道まで行けば、札所二十三番音楽寺への方向を示す矢印が見えます。

 

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十三権者の石仏から音楽寺方面に進みます。案内の柱のところには、札所二十三番(音楽寺)と書いて矢印があります。

 

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「巡礼みち 23番」の矢印に沿って土の道を下りていきます。この坂道は思ったよりも枯れ葉があって滑りやすいところです。

 

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桜の時期なら、この山道を下る時も桜を楽しめます。

 

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坂道を下ると音楽寺の観音堂の後ろ側に出ます。札所二十三番に到着です。

 

江戸巡礼古道を使った場合は、観音堂の裏手から入るので先に観音堂に到着します。観音堂で参拝してから、さらに下に降りたら、納経所があります。

 

札所二十一番から新旧2つの二十二番へ

札所二十二番へは現在は江戸巡礼古道ではなく明治巡礼古道を使います。

 

札所二十二番の童子堂は古くは奈良時代に作られた寺が童子堂観音として信仰を集めていたそうです。延喜年間に府坂峠に移され、さらに移動し、現在の場所に移ったのは明治43年とのこと。

 

なので、江戸時代には現在の「札所二十二番跡地」となる場所のほうに歩いて巡礼していたのです。

 

今の場所に移ったのは明治43年以降なのですが、巡礼古道に関しては、跡地へ通じる長尾根みちを「江戸巡礼古道」と呼び、現在の場所への古道は「明治巡礼古道」と呼び分けられているようです。

 

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「明治巡礼古道」と「江戸巡礼古道」と別の道であることがよくわかるのは、上の写真にあるように、2つの分かれ道のところです。

 

札所二十一番を出て県道を歩いていくと、薬師堂の手前で道が分かれるようになっていて、その場所に「明治巡礼古道」と「江戸巡礼古道」への行き方が案内板に両方書かれているのです。

 

江戸巡礼古道については、札所二十二番から二十三番までを「長尾根みち」と呼び、札所二十四番から二十五番までを「久那みち」と呼んでいるようです。

 

まずは現在の札所二十二番への道となる、明治巡礼古道についてです。

 

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札所二十一番を出てからは県道72号を右方向に出て真っ直ぐ歩いていきます。札所二十一番のバス停を過ぎて、300メートルほど歩くと、県道の左側は林のようになっていて、右側に入っていく道が見えてきます。

 

その曲がり角にはお店風に見えるのですが、薬師堂公会堂です。道の手前には「馬頭尊」の石碑です。

 

 

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薬師堂があることは、薬師堂公会堂の先まで歩くとわかります。公会堂の隣にお堂が見えます。いま来た県道からは公会堂の先まで行かないと、お堂のほうが見えにくいです。

お堂の手前には、お地蔵様も立っています。県道をさらに直進していきます。

 

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歩いて行くと、県道から左に細い道があるのが見えてきます。その二又になっているところに、「右 二十二番」の石とともに、「明治巡礼古道」の案内板があります。ここを左の道に入っていくのだなとわかります。

 

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 その道しるべ石のとなりに、石柱が立っていて、「武ノ鼻渡舩場ヲ経テ秩父町通」と書いてありました。「武鼻橋」については、江戸時代の書籍、『秩父順礼独案内記』にも書いてありました。江戸時代には、この明治巡礼古道を使っていなかったのに、です。

 

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左に入ってから少し歩いたところの左手奥に、寺尾城跡があるとのことでしたが、よくわかりませんでした。城跡を探すよりも巡礼古道が目的だったので、探すことなく、そのまま道なりに歩いていきました。

 

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途中くねくねとしていますが、道なりに進んでいきます。

 

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途中、大きな木があって三叉道のようになっていました。以前は目印になっていた木なのでしょうか。ここも道なりに沿って歩いていきました。

 

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道はゆるく右にカーブしていきますが、それでも道に沿って歩いていきます。 左側が竹やぶや木立になり、瓦店の工場の先の三叉のところに当たります。

 

そこを左に曲がります。このまま道なりに歩いていていいものかと心配しましたが、それでも歩いていくと一瞬、行き止まりかと思う場所で左に曲がると、南無観世音菩薩の赤い旗と、明治巡礼古道の案内板が見えてきました。

 

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左に曲がってからは、この赤い旗が立っているところを右に入っていきます。「南無観世音菩薩」の旗は、これからも目印として、しばしば見ることになります。この旗が見えたら一安心です。

 

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石垣がある古道らしさが残る道ですが、これまでの舗装された道ではなく土の道になります。

 

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ここから先は、畑の中の農道を歩く感じになります。 地図で上から見てみると、ここからほぼ真っ直ぐ先が札所二十二番の童子堂にあたります。今は畑道の中でまっすぐには行きません。

 

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畑の道の中を直進し、曲がり角には「南無観世音菩薩」の旗があるので、それを目印にします。

 

旗のそばまで行けば矢印も書かれた明治巡礼古道の案内板もあります。旗のところで、右に曲がって畑道を歩きます。

 

明治巡礼古道は童子堂へは くねくねした道ながらも、比較的真っ直ぐの道だったようなので、ここで曲がるのは、おそらくこの先の道が消滅したからでしょう。この畑の奥は森のようになっていました。

 

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便宜上、畑の中にできた道、迂回路になるのでしょう。この畑道を出て県道の方へと戻ります。

 

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舗装されてはいませんが、軽自動車くらいなら車も通れそうな道になってきました。

 

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別の時期に撮ったのですが、県道からみた細道です。このように県道近くまで行くと畑の中の道は舗装されている(途中まで舗装道路となっているのがわかりますか)のですが、それでも車が通るとしたら、ぎりぎりではないかと思うくらい細い道です。

 

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県道72号に戻ります。明治巡礼古道の案内板のとおり、県道に出たら左に曲がります。

 

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県道に出て左に曲がり、ゆるく左にカーブした道を20メートルほど歩くと、右に大日堂が見えてきます。その前には「大日如来」と書かれた石碑もあります。

 

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県道を歩いて右側が大日堂なのですが、左側をみると、深い堀が見えました。童子堂の周りは室町時代の城跡(永田城跡、鉢形城の砦の一つ)が残っているそうです。そのため堀跡や堤がここの他にも見ることができます。

 

ここまで来る途中にも寺尾城跡があるとのことでしたし、このあたりは、鎌倉時代、室町時代にはお城の多い場所だったのでしょうか。

 

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この写真に写っているのは卯の花だと思うのですが、 そこからゆるく右へのカーブになっています。

 

その先に札所二十ニ番の参道入口となる場所が見えました。入口のところにも南無観世音菩薩の旗が立っていました。札所二十二番のバス停を過ぎ、上寺尾公会堂のところで左に曲がります。

 

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入口の右側には「札所二十二番入口」と書いてある台座に乗ったお地蔵様もあります。年代のところが崩れてしまっていますが、安政四年なのだそうです。十一月吉日は読めました。

 

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 入口のお地蔵様と武甲山のツーショットです。このお地蔵様の前は駐車場になっています。5台くらいは止めることができそうな駐車場でした。

 

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お地蔵様のところを左に曲がって道なりに進んでいきます。途中、坂道を下る感じになります。そこは城跡なのか、堀のようになっていました。こちらは道の右側の様子です。

 

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 道の右側に太陽光発電のパネルとその向かい側に墓所がある場所が見えてきます。そこにも「巡礼道」と書かれた道しるべ石がありました。「右 二十三番 左 二十二番入口」と書かれていました。

 

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今来た道を振り返ったところです。写真で見れば、下り坂になっていることがわかるかと思います。

 

道しるべ石の向かいには「巡礼みち 二十三番」の案内板もありました。札所二十二番の参拝が済んだら、ここまで戻って二十三番へと向かうことになります。

 

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道しるべ石のところからは、10メートル程度で札所二十ニ番、童子堂の入口に到着します。

 

入口には石仏とお地蔵様が置かれていました。お地蔵様の下はその時咲いていた八重桜の花びらです。石仏とお地蔵様の後ろ側も広いスペースがあって駐車場になっているようでした。

 

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茅葺きの山門前に八重桜が咲いていました。山門には童子の顔の仁王様がいます。童子堂は、境内に道しるべ石が2基あるとのことなので、中を見てみましょう。

 

山門を入ると奥に観音堂が見えます。

 

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観音堂の入口は、山門から入って左側に回ると見えます。観音堂の扉には風神雷神の浮き彫りがあります。

 

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観音堂の前に、藤の木があってその根元に道しるべ石がありました。「向左 廿一番道 右 廿二番」となっています。

 

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童子堂は江戸時代元禄14年に「栄福寺」の住職の弟が再建したということで、江戸時代は「栄福寺」が童子堂の別当となって管理していたと言われています。

 

童子堂に行くと、説明書きのところには「秩父札所二十二番」「西陽山 永福寺」となっていて、お堂が「童子堂」となっていました。

 

童子堂の隣が永福寺となっているようです。永福寺(昔は、栄福寺と書いた)の以前の場所は県道の向こうの山側にあったようです。

 

なお、昭和四十年のこの説明書きには山号が、「西陽山」となっていますが、別の新しい説明書きには「華台山」となっていました。最近のガイドブックをみると、いずれも「華台山」となっていました。

 

境内にあるといわれる道しるべ石ですが、もう一基の道しるべ石がわからなかったのですが、今思うと、この説明書きの前にある石が道しるべ石だったのかもしれません。

 

もしそうなら、「みぎ 二十三番道 ひだり 大ミや道」と書かれているはずです。写真では日陰になってしまって文字が確認できませんでした。

 

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そのほか、境内には地蔵塚があって、中にお地蔵様が収められていました。 

 

以上が現在の地にある札所二十二番の童子堂です。

 

次に江戸巡礼古道の途中にある「以前の札所二十二番」への道を紹介します。江戸時代の道のほうです。

 

以前の札所二十二番ですから、現在は「跡地」となっています。まずは薬師堂のところの分かれ道のところまで戻ります。

 

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先程の薬師堂手前の江戸巡礼古道と明治巡礼古道との分かれ道の付近です。

 

薬師堂手前となる分岐地点です。先程も写真に乗せた「馬頭尊」と書いてある石碑がある場所です。

 

ここを先程は直進しましたが、今度はここを右に曲がっていきます。

 

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左にカーブする道ですが、道なりに歩いていきます。

 

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途中、曲がり角が見えますが、道なりに真っ直ぐ歩いて行きます。住宅地を抜けると木々が多くなってきます。長尾根のほうへ向かうので、森のように見える木々の方へと歩いてきます。

 

だんだん上り坂になってきます。ヘアピンカーブのように曲がっていくと、前に二又道、そのまた横に道がある何本も道が交差する峠のような平場の場所に出ます。

 

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今やってきた道に続く道は舗装されて車も通れるような道ですが、二又になっている右側は細い道となっています。

 

そちらの右の細道を少し上ると、札所二十二番の跡地に到着です。

 

説明書きの看板にあるように「ここより北へ百メートルほどの府坂地内に童子堂が建立されていたが、江戸元禄十五年に現在の童子堂がここに建立された。以来二百年もの長い間、この地に建っていた童子堂は明治末期になると巡礼に便の良い現在の二十二番の地に移された」となっていますが、ここよりさらに前の北へ百メートルほどの「府坂地」までの道は現在は確認されていないそうです。

 

説明書きの下に簡単な地図があって、点線となっているのが、江戸巡礼古道です。「この跡地には奥の院の跡や礎石が残り」と説明書きに書かれているように以前は供養塔などがあったそうなのですが、私が行った時は確認できず、見えるのは下草のようなものばかりで、草木で荒れた場所になっていました。

 

江戸時代の巡礼では、この「跡地」がある場所で参拝してから次の二十三番へと行ったわけです。ここからの道が江戸巡礼古道の中でも「長尾根みち」と呼ばれています。

 

次回は、二十三番へと続く道ですが、二十二番の場所となるスタート地点(新旧)が異なるので、江戸巡礼古道と明治巡礼古道では別の道を通ることになります。

 

 

札所二十番から二十一番へ

札所二十番は札所が設立した当初から場所も番付も変わらない札所となっています。

 

ガイドブックによっては、寺院がかつてあった旧の場所も地図に書いてくれているのを見たことがありますが、場所が移動している札所もあります。観音堂が別の場所にあったという場合もあります。

 

そのうえ、江戸時代には江戸から来る人のために、札所の番付が変更されて、札所一番は四萬部寺になりました。それから思うと、ここ札所二十番の岩之上堂は最初から番付が変わらない札所になります。

 

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江戸時代なら、荒川の簗瀬の渡し場で船に乗って岸を上ってきます。

 

江戸時代の『秩父順拝記』を見ると、船で巡礼さんたちが渡ろうとしているところが見えます。荒川の対岸に着き、観音堂に参拝したら、ここを上って次の札所へと行ったわけです。

 

江戸時代は入口と出口が別になっていたのですね。

 

ということで、巡礼道です。参拝が終わったら、石段を上がって上の道に着きます。今度は左に曲がって札所二十一番へと向います。上に上がると、石段とは別に左側に納経所へ下りていく道がありますが、そちらではなく真っ直ぐの道のほうを歩きます。来る時に札所二十番の入口前にあった供養塔などが多く建っている道に沿って行きます。途中、民家に入る私道が何本かありますが、そちらの脇道には行かずに直進です。

 

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途中少しゆるやかな坂道を上るような形で、右は民家の石垣があり、左は欅の道と言われる、林の中のようなところを抜けると、段丘上の見晴らしの良い場所に出てきます。ここは天気のよい日だと、武甲山も見えて眺めがいいです。

 

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下は荒川が流れているのですが、川はほぼ見えなかったです。木が生い茂っていたからかもしれません。

 

ここの道は段丘の上ということで高さがあって見下ろすような道です。ちょうど山藤が咲いている時期でした。

 

この道を通る時も何本か民家への道がありますが、真っ直ぐ歩いていきます。そのうち、ゆるやかに右にカーブしていきますが、道なりに歩いていきます。曲がるところには、墓所などがありました。

 

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カーブに沿って歩いていくと、古くからあるような民家がいくつか見えてきます。民家への細い私道はありますが、真っ直ぐ歩いていきます。

 

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そのうち、左に小道が見えてきます。民家へ入る道ではなく細いですが道路になっています。その曲がり角に道しるべ石がありました。「みぎ 廿一番」と書かれた心求・はまの石でした。横には「為 一切衆生」と書かれているようです。小道からの正面はT字路のようになりますが、そこには札所への矢印が書かれた案内板がありました。

 

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さらに直進していくと県道72号が上に走っているところに出ます。突き当りのように見えますが、ヘアピンカーブのようにして、県道に上がっていく道です。その突き当りに江戸巡礼古道の案内板と、その奥に供養塔がありました。

 

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供養塔は道しるべを兼ねていたのか、「左 廿一番」と書かれていました。

 

このまま道なりに行き、坂を上って県道に出ます。ヘアピンカーブのようにして戻るように左手に曲がります。

 

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県道に上がって左に歩くと、県道の遠く先、右手に札所二十一番が見えてきます。高い2本の木が目印です。

 

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 墓地とトイレの間に、「二十一番」の石柱がありました。

 

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札所二十一番の駐車場に「六丁」と書かれた道しるべ石があるというので、この石かと思ったのですが、違ったようです。あくまでも入口を示す石のようでした。

 

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裏に、「童女」の文字は見えましたが、「六丁」とはなっていなかったです。それらしい石が見つからないまま、札所二十一番、観音寺の入口へと行きました。

 

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札所二十一番観音寺は山門もなく、県道に面した寺院です。「秩父霊場第二十一番観音寺」の石標が立っています。

 

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県道に面して「真言曼陀羅供養塔」と「弁財天」の大きな石がありました。

 

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境内には宝暦14年の宝篋印塔の前に、六地蔵とは別に、古い感じがするお地蔵様が大小11体ありました。

 

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 境内の八幡宮のそばには、芭蕉句碑もありました。

 

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参拝を終え、県道を向こう側に渡りました。ほぼ対面にあるのが、明治期に活躍した当地出身の地芝居役者、中村十九十郎の墓です。

 

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「大和座」の座頭で、立役の名手「田舎千両」と評判されると書いてありましたので、人気役者だったのでしょうね。

 

 この写真でも前に見える県道を歩いて、次の二十二番へ行きます。

 

 

札所十九番から二十番へ

札所十九番の龍石寺は何度かテレビ放映もされているので、どこかで見たような気がするお寺かもしれませんね。

 

この境内は一枚の大きな岩盤の上にお堂が建っているという特殊な地形なのです。荒川の侵食によって露出した角礫質砂岩による岩盤です。

 

境内には、丸い穴がポコポコ開いて水たまりになっているのですが、それは川底にこの土地があったときのものです。川の流れによって石が水流で回転してできた川底を削った穴なのです。

 

川底が地面に出てきたと考えたら想像しやすいでしょうか。水が上を流れていた時代に石が流れて、それがくるくる回って穴ができたのだろうなと。

 

あまりにも時代が遡るので、時代の概念がよくわからなくなりますが。

 

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さて、地形の話ではなく、巡礼道の話です。六地蔵の前、入口角にあった道しるべ石のところから右に曲がり、観音堂の外の道に出て、お堂の周りの辺を回るようにして歩いていきます。上の写真に見える、この大きな岩の周りを回っていくイメージです。

 

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実際に見てみると、大岩であることがわかります。岩の上にも石碑がありました。石碑には南無阿弥陀佛と書かれているようでした。

 

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大きな岩のところには札所二十番への木の案内板もありました。とにかくこの大きな岩をぐるりと回るようにして歩き、突き当りからは左に折れて坂を下っていきます。下まで下りたら、駐車場や畑で見晴らしの良い場所になります。そこを左に曲がります。用水路の上を渡り、T字路の突き当りを右に曲がります。

 

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T字路の突き当りには、「右 二十番」の心求・はまの道しるべ石がありました。

 

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右に曲がってからは民家の間の細道を道なりに歩きます。広めの道路に出たら、右に曲がって旧秩父橋の方へと歩いていきます。

 

上の写真にあるように、広めの道路に出た時に、江戸巡礼古道の案内板が折れて下に落ちていました。しかし、方向は合っていますね。

 

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旧秩父橋の入口に来たら、左側が旧秩父橋で、右側に地蔵堂があります。「厄除安春地蔵菩薩」が安置されているようです。

 

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その地蔵堂の隣に、道標の石碑があるのですが、字が薄くなってしまってわかりません。「大野原」の文字はなんとなく読めたのですが。

 

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旧秩父橋は、現在は歩行者用の公園になっています。秩父橋橋上公園となっているのです。前方に今の秩父橋が見えますが、旧秩父橋だけではなく、さらにその前の橋脚というのか、橋台が残っていました。

 

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最初の橋の跡と旧秩父橋と現在の秩父橋というように、3つ存在していることが混乱しやすいので説明書きには、「二代目の秩父橋」のように書いてありました。

 

橋上公園になっているのは、「二代目の秩父橋」ですね。二代目は昭和六年に竣工だそうです。初代の秩父橋は明治十八年です。

 

 

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明治時代には秩父橋があったとはいえ、江戸時代の巡礼では対岸に渡るためには船を使います。「簗場の渡し」が使われていました。

 

もう少し今の秩父橋の方に渡し場があり、船に乗って対岸の札所二十番へと行ったのです。

 

札所二十番の内田家には、その当時の船賃などを取り決めた文書が残されているそうです。

 

この橋上公園の左側に渡船場へ下りていく石段が残っていたそうなのですが、私が見た時はその跡は見当たらなかったです。下に下りていく人がいたためなのか、左側には秩父市と秩父札所連合会の古い看板がかかっていて「秩父橋を渡る 20-25番」と書かれていました。

 

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さて、二代目の秩父橋を渡りますと、国道299号にあたります。出たところに信号がないので、「国道の下を通るように」と秩父のマップに書かれていました。

国道の直前、二代目秩父橋のすぐ右には下へ降りる階段があります。下へ降りるところの前に「巡礼道」の道しるべ石がありました。この石は新しい感じがします。矢印が下に向いていますね。

 

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矢印が指す方向、すなわち階段を下りて行きます。荒川が少し見える場所に行きます。

 

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下まで行ったら、今度は上に上っていきます。

 

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下からですが、新秩父橋と旧秩父橋(二代目)が見える場所です。旧秩父橋がアーチ橋であることがよくわかります。

 

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本来なら、下から再度上に上がり、上がったらそこから左に行き、そのまま歩けば以前は真っ直ぐ札所20番まで行けたそうです。

 

古いガイドブックには川沿いの道が書いてありました。

しかし、今は「この先地すべりのため全面通行禁止」になってしまっていました。上の写真、右側の木の茂みのところにある案内板に書いてあるように、「迂回路」を通ることになります。川沿いの道へは、✕印がついています。

 

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秩父橋の下を通って上に上がった場所には、先程の秩父橋の説明書きにも書かれていた「初代」秩父橋の親柱も2基残って建っていました。

 

「秩父橋」と「明治十八年十二月築造」と書かれているとか。下のほうが草が生い茂ってよく見えませんでしたが、この写真でも「明治」の文字は見えます。三代目、すなわち現在の秩父橋の基礎掘削中に発見されたという貴重なものです。

 

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その先には、これから十九番へ向かう人のために書かれた注意書きと、道しるべ石がありました。

 

矢印とともに、「巡礼道19番へ 横断危険のため、橋の下をくぐりぬけてお渡りください」と書いてありました。国道は車の往来が激しいですからね。

 

私は橋の下をくぐって行ってみることに興味があったからいいのですが、旧秩父橋の橋上公園を出たらすぐ目の前の道を渡るだけですから、国道とはいえ、目の前の道を渡って横断したくなる気持ちもわからなくもないです。

 

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国道299号に出たら、道なりに歩いていきますと、徒歩のみですが「う回路」があります。ここの案内板はわかりやすいです。

細い坂道をのぼって行くと徒歩のみの近道になります。車や自転車は国道を通ることになります。バスに乗った時しか、この国道を通ったことはないので、はっきりとはわかりませんが、ぐるっと回って札所二十番までの道のりは距離があったように感じます。

 

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細い道の坂を上って左にカーブして真っ直ぐ歩いていくと、目の前にお寿司屋さんが見えます。そこにあった電柱にも矢印と「札所20番 う回路 徒歩のみ」が書いてありました。ここを左に曲がりますが、右に行くと先程の細道のところで分かれた国道299号に出ます。

 

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左に曲がってから真っ直ぐ歩いていくと、途中で金昌山光正寺の寺標と墓地が見えてきます。

 

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もう少し歩くと、札所二十番の手前、札所20番第2駐車場の看板の下に「埼玉県指定史跡 延慶の青石塔婆」の場所を示す看板がありました。

 

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民家と民家の間の細道の先に、1310年の「延慶の青石塔婆」がありました。

 

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鎌倉時代、延慶三年の青石塔婆です。武蔵七党のひとつである丹党の関係資料になります。

 

江戸時代の巡礼の人たちもこの青石塔婆を見たのでしょうか。それとも、渡し船を使って札所二十番に参拝し、ここに青石塔婆があることも知らないまま札所二十一番へと歩みを進めたのでしょうか。

 

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左側に石仏や石碑がある場所の前を通ると、目の前に札所20番の看板が見えてきます。

 

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三基の石仏や供養塔のようなものが見えました。向かって一番右は、道しるべ石でした。「二十番入口 右 二十一番」と書かれています。

 

この三基は少し高い場所に有るのですが、この道沿いには数メートル離れたところに供養塔のような石が多くありました。石仏や供養塔、道しるべ石が固まって存在しているので、ここは廃寺跡地だったのでしょうか。

 

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すでに看板が見えていて、右には札所20番の駐車場もあるので、すぐにわかりますが、ゆるやかな坂を下り、左側に少し入ったところに札所二十番の「秩父霊場第二十番 法王山 岩上堂」の石碑があります。そこから川に向かって降りるようにして、札所二十番へと生きます。

 

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本来なら二十番の石碑に向かって左側の道が秩父橋付近の案内板でみたように、橋のところからあった川沿いの道なのでしょう。

 

今は秩父橋の先の付近が地すべりが起きているため「う回路」の道を使うようになっています。 ここにも「危険、通行止」の看板がありました。

 

「う回路」と書いてあるように、現在の道は川沿いの道を使っていた時より少し遠回りなってしまっているようです。

 

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二十番の石碑がある入口の下には観音堂へと下りていく石段がありますので、荒川の川岸に向かうような形で下りていきます。

 

 

 

札所十八番から十九番へ

札所十八番の観音堂は秩父の名匠である藤田若狭によって作られたそうです。正面の破風(はふ)が秩父夜祭で出てくる山車のひとつ(宮地のもの)に似ているそうで、藤田若狭と血縁関係にあった人がその山車を作ったから似ているのだと言われています。血縁関係なので、そばで見る機会があったからなのか。

 

秩父神社と札所は繋がりや関連性が多々あります。

 

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札所十八番には脇道から入りましたが、中には国道140号を少しだけ歩いて駐車場のほうから入る人もいることでしょう。こちらの入口は、納経所が近いほうの入口になります。

 

参拝を済ませたら、また国道140号を渡ります。もと来た細道を戻りまして、行きにも見たカーブミラーがあるところまで行きます。

 

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上の写真で言えば、左の道からやってきてカーブミラーがあるT字路に見える突き当りにあたったわけです。

 

変形の四つ角ですが、次の札所へはここを通りすぎて直進して行きます。カーブミラーの下には、江戸巡礼古道の案内板もあります。

 

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住宅地の中を道なりに直進していきます。

 

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先のほうに秩父鉄道の踏切が見えてきます。上の写真にもありますように「巡礼道」の札も下がっています。

 

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またもや、人しか通れないような道に秩父鉄道の踏切があります。巡礼道のために残してくれているのでしょうか。

 

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人家の庭先のような細道を歩いていきます。秩父鉄道の踏切を渡って振り返ってみたところです。

 

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この細道も終わり、車通りの道に出ます。細道の出口付近から今やって来た道を再度、秩父鉄道の線路の方向に向かってみた写真です。これから歩くのは秩父往還の道になります。秩父往還の道は秩父鉄道と平行に走っています。

 

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 秩父往還に出る細道の入口近くに「札所十九番ニ通ズ」という道標が右角にあったそうなのですが、見当たらなかったです。ここに限らず、いくつか見当たらない道標などがありますね。

 

秩父往還に出たら、ここを右に曲がって秩父往還を歩きます。

 

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秩父往還へ出ると、そこから道の斜め前の生け垣の茂みに、「中司ヲ経テ高篠峠」と書いてある石碑がありました。「巡礼道」の札があったから気づいたくらいで、無かったら素通りしていたような見つけにくい場所にありました。本当に見つけにくいので、秩父往還に出たらすぐに前を見ておくしかないでしょう。

 

 

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秩父往還を歩くと、昔は巡礼宿だったのではないかと思うくらいの古い家並みを見ることができます。とても雰囲気がいいです。

 

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「第一中学校」のバス停前を通り過ぎていきます。

 

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バス停を過ぎてからしばらくすると、二又になっている道が見えてきます。そこには、「廣見寺寺標跡」の石碑がありました。枝垂れ桜の咲く頃は花がきれいな場所です。

 

廣見寺は江戸時代末には34もの末寺をかかえる大きな寺院で、今の秩父札所のいくつかの寺院は廣見寺の大和尚によって開かれました。

 

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しばらくまっすぐに歩いていきますと、米屋さんの看板がみえ、その手前、道の右側に「坂東観音堂旧跡」が見えてきます。

 

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「坂東観音堂縁起」を読むと、1714年に秩父札所は甲午歳の総開帳の年にあたり、廣見寺は坂東三十三観音をお祀りするお堂を作って支援したそうです(西国三十三観音の跡地は秩父札所結願寺の水潜寺からの帰り道にある場所にあり)。

 

明治の廃仏毀釈で廃寺となり三十三体の観音像は廣見寺の座禅堂に仮安置されたそうです。その後、大正時代には火災で観音像が焼けてしまったそうです。その後、廣見寺の近くある妙見堂に観音像を再建したとのこと。その妙見堂は秩父夜祭のルーツであると言われる「妙見七つ井戸」があるのですが、その7つの井戸巡りでは、立ち寄る場所になっています。

 

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この坂東観音堂旧跡には、「勧請坂東札所観音霊場遺跡」と書いてある石碑もありました。秩父往還の右側は、この坂東観音堂旧跡がありますが、ここは四つ角になっていて、秩父往還の左側となる反対側、すなわち坂東観音堂旧跡の向かい側には坂道があります。

 

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その坂道に降りるところ、秩父往還から見ての左側の角には「ひだり 十九番」と書かれた道しるべ石がありました。

 

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下りてみるとわかりますが、左に大きくカーブした坂道でした。思ったよりも急坂です。

 

ここは、上に坂東観音堂旧跡があるからか、「ばんどう坂」と呼ばれているそうです。

 

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「ばんどう坂」を下りきるとログハウス風の喫茶店があります。喫茶店の板の囲いを回るようにして、喫茶店のところから右に曲がって細道を通ります。ここ付近にも道標があったようなのですが、これまた見つかりません。

 

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ブロック塀の脇を通り抜けると、少し広めの市道に出ます。

 

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住宅地内の道から出たところの反対側、真正面には道しるべ石です。「十九番」と書いてあります。市道に出たら、右に曲がり、市道をまっすぐ歩きます。

 

歩いていくと市道左側に喫茶店のように見える工務店のところに、札所の大きな看板が見えました。「札所19番入口」となっていたので、そちらから入ってしまったのですが、もう少し先の「あらいや」という酒店の横にある細道から入るのが巡礼古道のようでした。埼玉県の「歴史の道報告書」には、そちらの道が書いてありました。 

 

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工務店の横の道から入ると、団地のような建物が見えて突き当りを右に曲がると目の前が札所十九番の龍石寺です。

 

上の写真は、六地蔵のところまで入ってから、今、来た道を写したものです。写真でも見えますが、左側に六地蔵があり、右側に入口の石垣が少しだけ見えます。そこの角にも道しるべ石がありました。

 

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上の写真がその入口の石垣の角にあった道しるべ石です。「みぎ 廿番」と書かれています。

 

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道しるべ石から境内に入り、観音堂と納経所の間を通り過ぎ、境内の奥の竹やぶと土佐水木の花のところまで行くとこちらに寺標がありました。札所十九番である「飛渕山 龍石寺」と書いてあります。

 

 

札所十七番から十八番へ

 札所十七番の定林寺は秩父札所ができた当時は、番付が1番となっていた札所です。

 

江戸時代に江戸から来る人のために番付が変更されましたが、それまでは、ここ定林寺からスタートしていたわけです。

 

札所ができた当初は、秩父大宮郷に近い定林寺から札所を周り、徐々に周辺へと広がる形で巡礼道を歩いていきました。大宮とは「宮」すなわち今の秩父神社です。

 

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さて定林寺の参拝後は階段を下りて十八番へと向います。本堂の階段からは鐘楼が見えます。

 

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巡礼では鐘は最初に打つことになっていて、帰る時には打ちません。帰りの鐘は縁起が悪いと言われています。

 

定林寺の銅鐘は、埼玉県の指定有形文化財になっています。秩父、坂東、西国の百観音の像が浮き彫りになっている鐘です。階段を下り、もと来た参道を少しだけ戻ります。

 

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参道の途中に、十七番の駐車場を示す矢印があり、その下に「江戸巡礼古道」の案内板が見えます。ここの細い道を入っていきます。

 

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ここは、かなり細い路地道です。ほぼ駐車場の敷地ではないかと思うほど。上の写真は、一旦細道から出て、駐車場から細道に入る場所を撮りました。ここまで出たら、車も通れる道なので、ここを左に曲がって歩いていきます。

 

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駐車場脇を左に曲がってからは、坂を上っていきます。道なりにゆるく右にカーブした道を歩いていきます。坂の上の右に曲がる正面にお地蔵様のお堂が見えました。ここは坂の上なので、坂の途中では左を見たら定林寺の屋根が見えました。

 

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坂を上がってからもまっすぐ直進していくと、国道229号にあたります。そこには左側に道しるべ石がありました。「ひだり十八番」と書いてありました。

 

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この道しるべ石は国道側から見ると、「右 十七番」となっています。国道にあたったら、左に歩いていきます。約1キロほど歩くと相生町の交差点に着きます。ここは歩いてきた方向から見ると、真正面が二又道になっている五叉路の交差点です。

 

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その真正面先には、「右 皆野 熊谷道 左 國神 本庄道」と書いてある石碑がありました。

 

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裏側にまわって石碑を見ると大正四年に建てられた石碑でした。この二又を右側の道に入っていきます。右側の道は国道ではなく市道になるそうです。この市道を入ってすぐの曲がり角を右に曲がっていきます。

 

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民家と民家の間の道なので、市道を歩いてからすぐは右側を見ておくといいでしょう。駐車場のような空き地があります。この写真を見てもわかるように、新築の建て替えられたばかりの家が建っていたので、様相が以前とは変わってしまっているものと思われます。

 

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路地に入るところには、「巡礼道」の札がかかっています。この付近にも以前は」道しるべ石」があったと古いガイドブックに書いてありましたが、移動してしまったのか見つかりませんでした。

 

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ここから入っていくと、ちょっとくねくねした道ですが、木の枝に「巡礼道」の札があるので確認しながら歩くといいです。


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市道から路地に入り舗装された道とはいえ、細い道なので、徒歩用の道でしょう。よく残されていたなと思います。

 

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路地道を道なりに歩いていくと前方に秩父鉄道の線路が見えてきます。ここは徒歩用の踏切になっています。踏切とはいえ、人が通るか、ぜいぜい自転車くらいしか通れないほどの細いところです。

 

秩父鉄道の線路沿いはこのような民家が線路のすぐそば、というところもあるのです。民家の庭先にように感じますが、ここを渡って写真でもわかるように、この先に見える壁のところまでいきます(壁に道案内の板があり)。

 

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正面のブロック塀に線路方面から来た人にわかるように、道しるべ石がありました。「右 十七ばん 左 十八ばん」と書いてあります。そのすぐそばには「江戸巡礼古道」の案内板もあります。ここを左に曲がってまっすぐ歩いていきます。

 

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右側は畑などあって住宅地なのですが、のどかな道を歩くことになります。しばらく歩くと、前方に二又になっている道がありますが、左に入っていきます。

 

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ここもまだ細い路地道ですが、蔵がある家なども見えてきます。背の高い大きな木があったので、昔から目印になっていたのかなと思いました。

 

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さらに歩くと左は空き地になっていて、先にはお墓がありました。

 

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さらに直進すると、先のほうに道しるべ石があるのが見えてきます。そこは三叉の道になっていて、反対側から石を見ると「右 十七ばん」と書かれた道しるべ石でした。

 

十八番から歩いて来た場合は、ここが二又道ですので、右の道を歩いて十七番へ行く、ということです。十七番のほうからは写真でいうと、道しるべ石に向かって右側の道を歩いてここまで来たわけです。この三叉の道を左方面に歩いて行きます。

 

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左に曲がってからは道の両脇に木材工場がありそこを抜けてからは住宅地の中の道を歩くと、この写真のように正面前に生け垣があるところにぶつかります。

 

一見すると、突き当りのT字路のように見えますが、よくみると少し脇に道があるので、変形のズレたタイプの四つ角です。カーブミラーの下には、江戸巡礼古道の案内板がついています。その矢印の指す先が札所十八番です。ここを右に曲がります。

 

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右に曲がってから道なりにまっすぐ歩くと、すぐに国道140号に当たります。

 

国道までくると、札所十八番の神門寺は目の前に見えてきます。すぐ前の国道には横断歩道があるのでそこを渡り、札所十八番の神門寺の敷地の脇道から入りました。駐車場がある方から入ってもいいのですが、ここは住宅地の脇道のほうから入ってみました。

 

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札所十八番神門寺の脇道を通り、その脇道に開いている入口から入りました。入口右側には庚申塔などいくつか石碑が建っていました。庚申塔など石碑の前には不動堂がありました。

 

 

札所十六番から十七番へ

十六番からは、またもと来た道を戻ります。墓所を出たところの塀の下にある「十六番道」の道しるべ石のところまで戻ります。ここで今度は左に曲がります。

 

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まっすぐ行くと秩父駅から伸びる県道208号に当たります。その道を渡る手前右側に札所16番の大きな看板があります。その下には道しるべ石です。

 

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長細い石ですが、「左 十六番道」の道しるべ石です。ここまで秩父市内では道しるべ石も少なかったですが、ここからまた増えてきます。

 

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県道を渡った先には、木の茂みの中でわかりにくいですが、「右 十七番道」の道しるべ石があります。今度は、ここを右に曲がって秩父駅方面に歩いて行きます。

 

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途中で、十六番や十七番へ行く道を示す大きな看板があります。その下には「巡礼道」の案内板もあります。その下に、道しるべ石があるのです。

 

今では「村」とは言えないのですが、道しるべ石には「右 村道 左 十七番」と書いてあります。

 

ここは三角地になっていて、この先でも左に曲がることはできるのですが、この道しるべ石のすぐ前の細い道のほうを通ります。

 

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三角地の先頭の頂点のような場所、左の道から来たなら二又に分かれる場所にも道しるべ石です。「右 十六番道」と書かれた石です。ここの道は残してある旧道なのでしょう。ここで合流してさらに先に直進します。秩父市民病院の前も通って行きます。

 

 

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秩父市民病院の前を通り、秩父保健所の前を通っていきます(道路にも秩父保健所への大きな看板あり)。ここから先は法務局の前まで行ってから右に曲がって坂を登る道が、埼玉県の「歴史の道報告書」に書いてあったみちです。

 

しかし、江戸巡礼古道が他にもあるのか、後の調査で発見されたのか、わかりませんが、保健所の先の四つ角を右に曲がったところにも巡礼古道が残っているらしく、そちらの道のほうに道しるべ石があるというので行ってみました。

 

報告書では、法務局の前まで行くと書かれ、江戸巡礼古道と案内されているのは、法務局まで行かず、手前で曲がるということです。

 

ちなみに法務局まで行かない場合、右へ曲がるところの角には、上の写真にあるように電信柱に「江戸巡礼古道」と案内板がありました。江戸巡礼古道の札と「巡礼道」の札と2つあるので、ここで右に曲がることがわかります。

 

「巡礼道」の札の下に、ここを右に曲がるようにと矢印もありました。

 

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10メートルほど歩くと、民家の空き地のようなところに道しるべ石がありました。「右 十七番道」と書いてあります。そばには「江戸巡礼古道」の案内板もあります。

ここの前の細い路地道を入っていきます。

 

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舗装された道ではないのですが、よく残されていたなと思うような細い道です。写真では道になっていないように見えますね。民家の庭先を通るような細い道です。 道しるべ石にも「巡礼道」の札があります。

 

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道なりにしばらく歩くと、もう少し広くなりますが、それでも路地裏というような道に入っていきます。よく残されていたものだと思ってしまいました。

 

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ずっと道なりに歩いていきます。車も通れないような狭い道ですが、まわりは低い石垣になっている道です。

 

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この路地裏のような細い道を抜けると、少し大きめの道に出て正面に「峰寿司」のお店が見えました。正面には江戸巡礼古道の案内板も出ています。

 

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ここの舗装道路に出てからは右に曲がってゆるやかな坂を上っていきます。周りを石垣で囲まれた坂です。

 

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その坂を上りきると、四つ角があって、右手に「秩父霊場札所十七番 實正山定林寺」の寺標が立っています。 

 

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左に曲がり定林寺の参道に入りますが、その道に向かって右に道しるべ石があって「右 十八番 左 十七番」と書かれています。

 

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向かって左にも石柱があってこちらにも何か書いてあります。

 

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こちらも同じように書かれた道しるべだったのか?文字が摩耗してよく読めませんでした。

  

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余談ですが、定林寺の寺標が立っている四つ角ですが、今ご紹介した細い路地道をぬけてから坂を上ってくるルートのほかに、法務局のすぐ先まで行ってから右に曲がって坂を上ってくるルートもあると書きました。

 

その他にも昔のガイドブックには、定林寺の寺標がある四つ角の坂からみて右から入ってくるルート(寺標に向かって真正面の道)も書いてありました。

 

そちらの道には、定林寺へ向かう道の途中、左側に上の写真にあるように「馬頭尊」の石碑があります。

 

これら3つのルートが書かれていたのを確認しましたが、この3つのルートの中では、やはり「江戸巡礼古道」の案内板通りの道、案内板に矢印で示された道が一番古道らしさがある道のように感じました。

 

あの路地道は住宅地の中なのに舗装されていないあぜ道もあって、人や自転車くらいしか通れないような道でした。よく保存されていたなと思うほどです。

 

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とにかく3つのルートはともに、この寺標があるところには到着しますので、ここからは先は道端に南無観世音菩薩の旗が立つ参道、定林寺への参道へと入って行きます。

 

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参道を道なりに通っていくと、道の突き当りに札所十七番の定林寺があります。桜の開花時期は、このように桜を見ながら巡礼できます。

 

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石段を上がる手前、定林寺の観音堂に向かってすぐ左側に地蔵尊のお堂があります。お堂には念仏供養塔も置かれていました。その小さなお堂の左脇にひょうたんみたいな形の少し茶色っぽい石がありまして、それも道しるべ石でした。土台の脇のところにあります。

 

見落としてしまいそうな道しるべ石ですが、「右 十六番道 左 十八番道」と書いてありました。

 

ここの道しるべ石は注意しておかないと見ないまま通り過ぎてしまいそうです。

 

 

札所十五番から十六番へ

札所十五番から十六番までの道は、また同じく秩父鉄道の線路を渡って寺標のところまで戻ります。札所十五番の少林寺へ行く途中にも秩父神社の参道を通りましたが、今度はさらに秩父神社へと近づきます。

 

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秩父神社前の交差点までくれば、大きな鳥居も見えます。この写真は大事な行事である御田植祭の時の鳥居です。実は、12月の例大祭につながる神事なのです。実際に見るとわかりますが、一年の豊作を祈願するお祭りです。春に武甲山の神様をお迎えして、冬の例大祭でお帰りになるという神事です。

この神事では札所十四番今宮坊の時に一緒に写真を載せた十四番のそばの今宮神社にある龍神池の水を使います。水分神事が行われます。

 

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秩父神社は、秩父三社として有名です。一宮の神社で、延喜式神明帳にも載っている古社です。江戸時代には、境内に妙見社がありました。今でも裏にある神輿が置いてある場所にかかる扁額には「妙見宮」と書かれています。この場所は、「柞の杜(ははそのもり)」と呼ばれる史跡になっています。

 

さて、その秩父神社の交差点から左に曲がって国道299号に沿ってあるきます。本町の交差点で国道は右に曲がっていきますが、そのまままっすぐ歩き、中央ドラックと秩父ふるさと館の間の道を直進します。

 

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上の写真は秩父ふるさと館の横側の写真ですが、この通りは古い家並みを見ることができる通りです。

 

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昔を思われせる家々が並びます。貴重な街並みの通りです。さらに直進していくと、二又に分かれる道の真ん中に民家が建っているのが見えます。

 

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二又道の民家の玄関先にある道しるべ石です。「右 十六番道」と書かれ、状態良く保存されています。

 

二又では左の道がメインの道のように見えるのですが、この二又道では右の細いほうの道へ入ります。ここからは右に大きくカーブした坂道で、その後は左にカーブするように下っていきます。

 

 

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途中の四つ角に子育地蔵尊のお堂が左に見えます。写真の説明書きによると、地蔵堂の石仏には「十六番中道」の刻字があるそうです。ここもさらに直進していきます。

 

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すると正面に高橋組本社がある変則的な四つ角のところに出ます。右に少し行った先に少しずれた四つ角となっていて、いま来た道から見ると、斜め右の先に「巡礼道」と書かれた道しるべ石がありました。表からみると、「十六番入口 右 十七番へ」と書かれています。この石を裏からみると、「右 十六番」となっています。

 

この変則的な四つ角を右に曲がってまっすぐ行くと、「わへいそば」というお蕎麦屋さんがあってその前をすぎて、そのまままっすぐ歩きます。このお蕎麦屋さんは秩父では有名なお蕎麦屋さんのようです。

 

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そこからまっすぐ30メートルほど先に木の塀があって、墓所の方へいく細道があります。そこを左の細道のほうへ入って行きます。その角には、道しるべ石があって、「十六番道」と書かれていました。

 

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墓所の道の途中には、旧観音堂があった場所があります。「小田原北条期より江戸享保時代迄西光寺観音堂(現札堂)があったとされる」と書かれた石碑がありました。

 

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その道には他にも、甲山事蹟の石碑がありました。「井上甲山は明治期に秩父を代表する水墨日本画家として活躍し、多くの秀れた作品を残した。秩父札所十三番観音堂及び当山境外薬師堂は何れも明治の再建であり、その格天井画を揮毫している。墓石は左側三基目。戒名は雪翁甲山居士」と書いてありました。

 

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墓所の間を通る道を通りぬけると札所十六番西光寺の山門が見えてきます。西光寺は枝垂れ桜が有名な寺院で、私も桜の頃に行ったことがありますが、見事な桜を見ることができます。

 

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山門から入って正面が観音堂となっていて、向かって右に納札堂(旧観音堂)があります。これもよく残されていたなと感じるお堂です。今でも柱には納札を打ち付けた釘後が残されています。納札自体はなくなっているものもあるようですが、釘跡は残っているのですね。

いわば私達の先輩、先達たちが残した跡です。今では納札は紙になってしまいました。

 

巡礼の時に順打ちとか、逆打ちとか言いますが、「打つ」というのは昔はこのように釘で打っていたからなのですね。今ではこのように札を打つこともなくなり、紙札になりました。それを寺院の建築物に貼るようになって中には所構わず貼る人もいるので、禁止になったところもあります。

その一方で、札所三十番の法雲寺の納札のように、百観音はいつ頃成立したのかを探る重要な手がかりにもなっているので、この文化も絶やすのが惜しい気もします。

 

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今回は江戸巡礼古道に従って、墓所のほうから歩いてきましたが、現在の参道は山門をまっすぐ前に通る道のようです。

 

秩父中村郵便局の脇の道を歩くと、そちらの道の入口には「秩父札所十六番 無量山西光寺」の寺標が立っています。秩父の札所には珍しい真言宗と書かれています。そこには「四国八十八ヶ所寫」の文字もあるように、西光寺には、「四国八十八霊場の写し」となった回廊堂があります。

 

札所十四番から十五番へ

秩父市内、とくに秩父神社付近のあたりは、札所と札所の間も距離が短くてすぐに次の札所に到着できて次々と参拝できます。

 

しかし、他のところでは多く見られた道しるべ石や石柱などが移動してしまったり、無くなってしまっているそうです。昔ながらの古道らしさが失われてしまっている場所も多いのだとか。

 

 

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お詣りを済ませて次の札所十五番へと向います。観音堂を出て左に行き、数メートル歩いて、札所十四番の駐車場の矢印がある方へと歩いていきます。納経所の裏手に駐車場があります。駐車場のところの四つ角まで行くと、右に入る細い道があります。そばに「江戸巡礼古道」の札もかかっているのでわかるかと思います。

 

ここにも見えますが、車は入れないほどの細い道をまっすぐに歩いていきます。四つ角があってその先はさらに細い路地のような道になります。細い路地なのですが、江戸巡礼古道という雰囲気は感じました。

 

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路地から出ても、それでもまっすぐ歩いていくと、左手に爪龍寺の寺標と庚申尊のお堂が見えてきます。

 

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爪龍寺の寺標の横には六地蔵もあり、入口に「不許葷酒入門」の石碑です。そこは爪龍寺の参道のようでした。

 

爪龍寺と庚申尊のお堂の前を数メートル歩くと、目の前に「内田医院」の看板があって、その四つ角を右に曲がります。

 

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右に曲がってから直進していくと、また県道73号にあたります。この県道を渡って、右斜めにある石橋スポーツのお店と本町知々夫ブランド館の間の道をまっすぐに入っていきます。

 

ここまでの間に道しるべ石のひとつくらいあっても良さそうですが。

 

さらにまっすぐ歩くと「番場町公会堂」の看板が見えてきます。その脇を通ってさらに道なりにまっすぐ歩きます。

ただし、「秩父ナビ」のサイトの地図では、番場町公会堂まで行かないで、そのすぐ手前で左に曲がって最初の四つ角を右に曲がってまっすぐ行くルートが書かれていました。

 

しかし、埼玉県の「歴史の道報告書」では、番場町公会堂の脇を通って、秩父神社の参道に出るとあったので、このまま、まっすぐ歩くルートで行きました。番場町公会堂の脇を通って道なりに行くのですが、けっこうくねくねした道です。

 

石畳風にになっている秩父神社の参道に出たら、左に曲がります。

 

少林寺入口秩父

 

左に曲がってから秩父神社の参道を歩いて行くと、右手に「五葉山少林寺」の寺標が見えるので、ここが入口なのだとわかります。寺標の側面には「秩父札所十五番納経所」と書かれていました。

 

秩父鉄道線路からの少林寺

 

少林寺の参道ではあるのですが、その前には、秩父鉄道の線路があります。踏切を渡って数メートル先が札所十五番少林寺です。

 

 

秩父札所少林寺寺標

 

石段の右脇に古い寺標「五葉山少林寺」「秩父札所十五番納経所」となっています。「五葉山」と「母巣山」の山号については後ほど書きます。

 

その奥には、「秩父事変殉職警官墓所入口」の石碑があります。境内に山縣有朋の追悼の「山縣有朋篆刻碑」もあります。

 

警官のお墓はここにあるのですが、殉職した場所にも行ったことがあります。そこにも供養塔らしきものが立っていました。青木興市巡査の殉職した場所で、皆野町大渕にありました。もう一名の方は吉田地区の阿熊が殉職した場所になるそうです。

 

秩父少林寺半僧坊

 

紅葉の時期の境内です。観音堂の右手には、秩父半僧坊大権現社もあります。

札所の観音像は秩父妙見社の神宮寺である蔵福寺に安置されていたので、秩父札所ができた当初の番付には「二番蔵福寺」と書かれていました。この蔵福寺は、神仏分離令によって廃寺となっています。一方、五葉山少林寺は『新編武蔵風土紀稿』に「臨済宗建長寺派、本尊達磨」と書かれていました(お正月には少林寺で達磨が売られているのをみました)。

札所の観音像を近くの少林寺に安置することが、時の役所によって認められ、「母巣山少林寺」として、札所十五番を引き継ぐことになったそうです。

 

札所の御詠歌にも「みどり子のははその森の蔵福寺 ちちもろともにちかひもらすな」とあって、「ははその森」や「蔵福寺」の文字が見えます。

 

札所十五番は「母巣山 少林寺」となり、 蔵福寺は「母巣山 蔵福寺」だったことから、「母巣山」の山号と寺名の「少林寺」の合体として引き継いだのかと。

そして、参道の寺標にある「五葉山」としての少林寺は、札所十五番の納経所としての位置づけなのかなと思いました。

 

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余談ですが、札所十三番と札所十五番の間に位置する場所に、スーパーのベルク東町店があります。その脇のお蕎麦屋さん「大むら本店」との間に墓所があって、そこが「五葉山少林寺」の跡地なのだと言われています。その入口には、少林寺で見かけた「三つ鱗」の紋がありました。